●廃仏毀釈コラム 草案
仏像への銃撃
兵器鋳造のためとして、桜谷長慶寺にあった大仏の献上を強要
寺院・信徒一同がせめて首だけでも頂けないかと懇願したが受けいられず、藩は弾丸を撃ち込んで強弱を検査
大仏は明治の廃仏毀釈により失われましたが、現在は信者より寄進された大仏頭が本堂内左側に安置されています。
合寺令の内容
永代経の厳修は7日間 臨時法談は3日間に限る
寺院への参詣者の規制
寺院の時鐘及び太鼓使用の禁止
士卒の寺院境内への埋葬禁止
60歳以下女性の参詣禁止
父母兄弟忌日以外の参詣 禁止
それでも参詣が止まらないので
合併所へ役人を派遣し、氏名を記帳し逮捕すると通告
各寺檀家数の報告を命じ、檀家への年頭配り物などを禁止
村々から寺へ上納した仏供田に対し、持分掛高に取り結ぶ通知
一寺一派
10月27日に発令
午前10時まで 遠村での午前0時まで
各寺へ兵卒を差し向け、
28日に家財・法具を取り払って合寺せよ
29日午前6時に検分に来る
藩内の要所に武装兵を配置し、門信徒を監視、藩外への連絡を絶つ
(降雪期に入るため 取り払いは2月15日まで猶予に)
合寺の強行に対する民心の動揺に対し、厳科に処すことを通知
還俗を願い出る僧侶には寺院建物を下賜と勧奨
17ヶ寺が還俗
持専寺本堂には各合併寺院の本尊がまつられ
二百数十ヶ寺、約1200人が雑居 浦上キリシタン36名も同居
町名改名
寺町→梅沢町 海岸寺町→八人町 寺内町→餌指町 古寺町→常盤町 門前町→五番町 御坊町→桃井町 長清寺町→相生町
墓所を長岡御廟所うしろの場所に改葬
廃寺・還俗した寺院の檀家は改宗し 続けるならば合寺した寺の檀家となれ
廃仏毀釈・ご消息・法蔵菩薩像
明治12年本願寺第二十一世厳如上人が富山へ赴き、明治13年に説教所が設けられ明治17年に別院に昇格します。
同じ年の明治13年に、消失していた東本願寺の再建が始まります。これは廃仏毀釈の一応の収束を見越したからと推測されます。
1882(明治15)年8月、越中国(富山県)下新川郡にある某寺院は、土地では高名な真言宗の古刹でしたが、両堂の再建へは大いに賛意を表し、所有する山林にある巨木を寄進し、運搬に際して住職自ら旗を振って檀家を率いられたことが、当時の新聞に掲載されています。本山に寄贈された毛綱も、越中国(富山県)が最も多く16筋。続いて越後国(新潟県)15筋、羽後国(秋田県)10筋などとなっています。本山への協力がこれだけ厚かったのは、廃仏毀釈を経験した富山に仏教復興の機運が高まっていたからです。
現在の別院の場所は、元は富山城の外堀でした。そこを埋め立てるために、神通川から土砂を運ぶ「砂持奉仕」が行われ、延べ7000人以上の門徒が参加したといわれます。こうした奉仕によって、明治21年に別院の仮本堂が総曲輪に誕生しました。
廃仏毀釈の混乱の後、県内各地で「お講」が設立され、活発化します。それぞれのお講にご消息が下附されました。当時下附されたご消息は、現代から見れば問題が多い、明治政府方針に沿ったものでした。
明治後期には県内に多くの石仏が建立されます。呉西は聖徳太子を祀る瑞泉寺の影響か「南無太子像」が多いのですが、呉東は「法蔵菩薩五劫思惟像」が多く作られます。
法蔵菩薩像は薩摩のかくれ念仏において、真宗門徒であることを隠すために、釈迦苦行像と偽って本尊としたものです。薩摩と富山のあいだにどのような関連があったのか研究が進められていますが、真宗への弾圧を意識させる仏像が富山で建立されたことの意味はなんだっのでしょうか。想像がひろがります。
コメント
明治の廃仏毀釈と石仏
尾田武雄
明治期の東西本願寺末には多くの優れた学僧を輩出し、地方の教化が進んだ。幕末から明治期にかけては、いよいよ庶民に真宗が浸透した。たとえば東本願寺では、元治元年(一八六四)に焼失した両堂を苦心再建し、明治二八年四月二十日、「御影堂遷座法要」が執行され、参詣者は二万人を超える門徒・僧侶で白洲が埋め尽くされたのであった。阿弥陀堂が再建された。それに献身的に真摯に尽力した人に、砺波の妙好人砺波庄太郎がある。
この地方呉西砺波地方は獅子舞や盤持・草相撲・チョンガリなどの郷土芸能が盛んな地域である。これらは古い歴史を持つものもあるが、多くは明治期に起こったものが多いのである。真宗王国と言われているが、若衆報恩講などもこの時期に盛んに勤められた。野にある多くの石仏も幕末から明治期の造立が多い。富山県西部の砺波地方では南無太子像の造立が、東部の大山町周辺では法蔵菩薩が盛んに造立されたのは、庶民の逞しさと真宗に根ざした信仰の証でもある。その象徴がこの石仏たちなのかもしれない。
明治三年に富山藩は仏教寺院を宗派ごとに一カ寺に合併させるという事件が起こった。これは明治政府の神仏分離に呼応するもので、過激な廃仏毀釈であった。また富国強兵のため仏像仏具を鋳つぶし兵器製造を計画もされ、藩内の真宗寺院約二五〇カ寺一二〇〇人余りは畳二四〇畳ほどのところにおしこまれ、仏像仏具も持ち込まれていた。富山藩の仏教界は受難を迎えていた。全国的にも宗教界は混乱を極め、東西本願寺の財政は極度に悪化をしていた。
門徒と法蔵菩薩
西本願寺では講社の活動を活発化し募金活動が展開され、富山にも多くの講が設立され消息が下付されている。特に法蔵菩薩の石仏の多い「新川地区には質素な日暮の中で法義弘通を行なうことなどを決議され、革新の機運がみなぎっていた。」(『越中念仏者の歩み』)。新川郡は加賀藩ではあるがこんな時期に、真宗門徒も熱狂的に真宗に聞法されて行かれた。また幕末期から盆踊りや節談説教などでも、真宗の庶民への普及の恩恵も大であろう。報恩感謝つまり、「私のためにご苦労され、やせ細られた法蔵菩薩」に感謝し、恩に報いるための営為で、生かされる喜びに歓喜された証であろう。生きていることに対し、また救ってくださった弥陀に対し御恩報謝の念がやせ仏の法蔵菩薩に向けられ、それがまた庶民である門徒の平生業成の生き方として、法蔵菩薩が道端や野に安置されたのであろう。真宗の門徒にとっては、阿弥陀は家の仏壇に安置されるものであり、野に置くのは憚れたのであろう。
Posted by: 尾田武雄 | 2008年02月11日 12:43