« 2008年02月 | メイン | 2008年04月 »

2008年03月23日

●富山東別院創建記念碑について研究報告

石川正穂〈富山教区 第11組 玉永寺〉富山東別院創建記念碑について
大火、戦火をくぐり、別院設立への願いを唯一伝えてくれる記念碑。それは未来への道しるべです。
刻まれている重大なメッセージを読み取り、真宗門徒である私たちが、これから歩むべき方向を考えます。
松本白華の生涯
天保9年(1838)誕生
安政3年(1856 18歳)本誓寺住職となる
明治3年(1870 32歳)富山藩合寺事件。12月8日、富山藩へ本山から派遣され実情検分。
明治4年(1871 33歳)新門主に要点五ヶ条の報告陳情書を提出。
2月 強制合寺の不都合を実情を上げて論し、布令を批判。
3月 新門主(現如)、白華より報告の五要点を詳細に挙げて政府の善処を願い出る。
4月 寺院寮に宛て、当初の布令以下一連の始終の経過を一々布令を挙げ陳述。合寺令の不当をなじる。
明治5年(1872 34歳)新門主に随従し、石川舜台、成島柳北らと欧州への宗教事情視察に赴く。
明治10年(1877 39歳)外国布教掛 上海別院輪番となる。
明治12年(1879 41歳)輪番職を辞して帰国。子弟の薫育に当たる。
明治17年(1884 46歳)富山の説教所が別院に昇格。
     白華の手による碑が、損壊しつつも、今も残っている。
明治30年(1897 59歳)寺務改革派の総代として嘆願書を提出する。
       石川舜台第二次宗政時代(~1902)
明治43年(1910 72歳)本山議制局議長に就任。
大正15年(1926 89歳)没す。

石川正穂〈富山教区 第11組 玉永寺〉富山東別院創建記念碑について

 富山別院御遠忌の企画として富山藩合寺事件を取り上げようという話が出てきたとき、わたしには割り切れないものがありました。富山藩というのは富山教区でも常願寺川より西にあった小藩です。ほかのメンバーの寺は被っていると思いますが、自坊があります水橋は加賀藩の飛び地でしたから、明治の廃仏毀釈は被っておりません。富山教区でも一部でだけ発った事件を、教区全体としてどれだけ問題意識として共有できるだろうかと。わたしとは関係のない問題ではないかという、迷いのようなものがありました。

 しかし、この事件を学び、調べるにつれ、明治に発った富山藩合寺事件というのは、局地に発った単発的な事件ではなく、日本の近代化の原点であり、そして真宗大谷派教団の近代化に重大な影響を与え、現代の真宗門徒である私たちに密接に繫がっている事件であるということに思い至ったのです。

 富山別院は大火や戦火によって焼けています。唯一、大火、戦火をくぐりぬけて、創立当時のことを伝えているのが創立記念碑です。石碑の一部は損壊して読めません。それでも、明治維新の際に富山藩で廃仏毀釈があったこと、明治13年にここに説教所が建てられ、17年に別院へと昇格した際に石碑が建立されたこと、そして松任本誓寺の住職、松本白華がこの文章を書いたということが読み取れます。破損して裏に置かれ、周辺部分がバラバラになっていましたが、今回、それを修復し、創立当時のように別院の正面に安置する予定だそうです。

 年表をご覧ください。明治2年、富山藩合寺令事件が勃発しました。富山藩へ赴き、調査、交渉を行うことを本山から命じられたのが白華でした。多くの寺が打ち壊され、鐘楼・仏具が武器へと鋳潰され、僧侶が還俗を迫られている悲惨なありさまを、白華は目撃しました。仏教は役に立たない空理空論であり、僧侶は門徒の上に胡座をかいてるだけで必要ない。厳しい廃仏毀釈が目の前で実行されていたのです。

 白華は政府、藩、そして本山に対して、次々と調査書や意見書を提出します。例えば明治4年、本山にあてた報告陳情書のなかで、文明開化によって人々の交流は自由であるとされているのに、戒厳令が引かれているような様の富山藩の状況はどういうことなのかと抗議しています。この書はそのまま政府への要望書に添えられて提出されます。白華のめざましい活動は、当初事件を静観していた政府の方針を変えさせる大きな一因となりました。 

 その翌年の明治5年、白華は欧州視察に旅立ちます。時代遅れ、無用の長物とされた仏教が、「近代化」という機運にどのように対応し、参画していくか。新たな道を探ることが危急の課題でした。その後、白華が上海別院輪番となったのも、浄土真宗が海外にも進出できる力のある、近代的宗教であることを証明しようとしたものでした。

 清沢満之による宗門改革運動と近代教学、石川舜台による二院制の導入など、明治期の仏教者たちのめざましい努力によって大谷派教団の近代化は、国家体制の近代化に並走するペースで推し進められました。しかし、近代化路線は、真宗教団の独立性・主体性を薄め、天皇制国家体制の確立に追随することでもありました。

 富山藩合寺令事件から百年後、日本は近代化の旗印の下、アジアを先導する文明国であるという自負を持ち、海外進出と称し軍を派遣します。真宗教団は武器として鋳潰すため、今度は自ら梵鐘、仏具を供出します。多くの僧侶たちが兵士として戦場へ赴き、戦死しました。かつて時代に乗り遅れた者として受けた廃仏毀釈でしたが、皮肉なことに、今度はアジアの人々を未開の民族と貶めて侵略していく立場に立ったわけです。
 結果、再興された富山の寺々も、この別院も大空襲によって焼き払われました。さまざまな思いが先人たちの心に交錯したことでしょう。

 富山藩合寺事件は、私たちの教団の近代化という問題を見つめるための、重大事件であると思います。そして、今も仏教を時代遅れ、前時代の遺物と貶める廃仏毀釈は終わっていません。あるいは、私たち門徒自身がそのような考えにとらわれてはいませんか? 「明日から門徒やめなさい」と言われたら、みなさんはどうしますか?
 白華、そして富山の先人たちは、あの時、なにを守り、なにを後世に伝えようとしたのか。私はそれを、学ぼうと思っています。

2008年03月08日

●富山の仏教復興運動

 明治12年、本願寺第二十一世厳如上人が富山へ赴き、明治13年に説教所が設けられます。同じ明治13年に消失していた東本願寺の再建が始まります。これは廃仏毀釈の一応の収束を見越したからと推測されます。 

 1882(明治15)年8月、越中国(富山県)下新川郡にある某寺院は、土地では高名な真言宗の古刹でしたが、両堂の再建へは大いに賛意を表し、所有する山林にある巨木を寄進し、運搬に際して住職自ら旗を振って檀家を率いられたことが、当時の新聞に掲載されています。本山に寄贈された毛綱も、越中国(富山県)が最も多く16筋。続いて越後国(新潟県)15筋、羽後国(秋田県)10筋などとなっています。本山への協力がこれだけ厚かったのは、廃仏毀釈を経験した富山に仏教復興の機運が高まっていたからでしょう。

 明治17年、説教所は別院に昇格しますが、東西両別院設立について「富山市沿革史」に「これ明治三年廃寺合併以後、数多くの信徒を一室に集めて、説教を聴聞せしむる場なきに由り致す所のものなり」と記述されています。当時、別院の存在が切実なものであったことが伺われます。

 現在の別院の場所は、元は富山城の外堀でした。そこを埋め立てるために、神通川から土砂を運ぶ「砂持奉仕」が行われ、延べ7000人以上の門徒が参加したといわれます。こうした奉仕によって、明治21年に別院の仮本堂が総曲輪に誕生しました。

 廃仏毀釈の混乱の後、県内各地で「お講」が設立され、活発化します。それぞれのお講にご消息が下附されました。当時下附されたご消息は、現代から見れば問題が多い、明治政府方針に沿ったものでしたが、 越中の仏教再興を願いとした「お講」の意義が忘れられ、徐々に消滅していることが残念です。

 明治後期には県内に多くの石仏が建立されます。呉西は聖徳太子を祀る瑞泉寺の影響か「南無太子像」が多いのですが、呉東は「法蔵菩薩五劫思惟像」が多く作られます。法蔵菩薩の掛け軸も広く流布しています。 法蔵菩薩像は薩摩のかくれ念仏において、真宗門徒であることを隠すために、釈迦苦行像と偽って本尊としたものとも言われています。薩摩でも激しい廃仏毀釈が行われました。薩摩と富山のあいだにどのような関連があったのか研究が進められていますが、真宗への弾圧を連想させる仏像が廃仏毀釈後の富山で建立されたことの意味はなんだったのでしょうか。想像がひろがります。

●仏像への銃撃

 明治元年3月の神仏分離令を受けて、加賀藩は明治2年3月に、立山権現管下の芦峅寺・岩芦寺の神仏分離に着手していました。立山権現の「権現」の称号を廃して雄山神社と改称を命じ、芦峅寺・岩芦寺の衆徒をすべて僧形から神職に変えさせ、仏事関係の施設や仏像などの取り払いを命じました。これによって芦峅中宮寺では、姥堂や帝釈堂、布橋などが破脚されました。豊かな宗教習俗を形成してきた立山信仰は、政治によって変形させられ、現在に至ります。
 富山藩では明治3年10月4日、林太仲が大参事に任ぜられ、兵器鋳造のためとして、桜谷長慶寺にあった大仏の献上を強要し、この賞として閏10月24日に金千匹を下賜しています。この大仏破壊の際には寺院・信徒一同がせめて首だけでも頂けないかと懇願しましたが受けいられず、藩側では仏像をこも包みにして弾丸を撃ち込んで強弱を検査しました。
 こうして桜谷大仏は明治の廃仏毀釈により失われました。現在はそれを悼む信者より寄進された大仏頭が本堂内左側に安置されています。
 そして富山藩は、同月27日に、合寺令を発します。

●廃仏毀釈の政令

明治3年10月4日 林太仲 大参事に任ぜられる
10月12日 藩士卒一般に神葬祭を許可
閏10月初旬 永代経の厳修は7日間(当時は一ヶ月が一般的) 臨時法談は3日間に限る
閏10月7日 士族の女性の寺参詣を禁止
閏10月8日 宗教結社・私僧の禁止
閏10月9日 社寺境内に同居人を置き地代を徴収するすることを禁止
閏10月14日 寺院の時鐘及び太鼓使用の禁止
閏10月18日 藩庁よりの触状を迅速に行うように達し
閏10月19日 士卒郡市の寺院境内への埋葬禁止
閏10月24日 18日の達しに違反したとして処分、入牢、廃寺処分が命じられる
閏10月27日 合寺令発布
         他藩の僧侶を招待すること禁止 托鉢の僧尼を泊めること禁止
○当日 午前10時まで 遠村は午前0時までに 各寺へ兵卒を差し向け、
○28日中に家財・法具を取り払って合寺せよ
○29日午前6時に検分に来る
○藩内の要所に武装兵を配置し、門信徒を監視、藩外への連絡を絶つ
○(降雪期に入るため 取り払いは2月15日まで猶予に)
閏10月29日 女性の参詣は60歳以上、父母兄弟の忌日以外は差し止める
       寺へは供物のほか、一切の物品持参を厳禁する(市正・里正に命じる)
11月1日 他藩にある檀家を禁じる
11月4日 合寺強制後の寺院建物を至急取り払う
     寺院で還俗を願い出るものには建物、屋敷を下賜(各宗合計17ヶ寺が還俗)
11月10日 仏道鍛錬の輩には告寺後も寺号はそのまま差し置くが、そうでないものは廃寺
11月19日 合併後の真宗寺院全体の主寺公選を命ず
11月23日 告寺の強行に対する民心の動揺に対し、厳科に処す
11月24日 各寺檀家数の報告、檀家への年頭配り物を禁止
11月25日 合併所への違反参詣者の氏名を記帳し逮捕する
12月    村々から寺へ上納した仏給田に持分掛高に取り結ぶ
明治4年
1月26日 引き取り人なき旧寺院建物は旧寺院側で取り払うよう通達
1月 旧寺院の墓を長岡御廟所後草付の場所へ改葬すべし
   旧寺院跡開拓地、社寺領、村々より献納の仏給田、村方で調理せよ
廃寺や還俗した寺院の檀家は改宗自由、従来の宗旨を続けるものは各宗主寺の檀家とする
1月 町名改名
寺町→梅沢町 海岸寺町→八人町 寺内町→餌指町へ統合 古寺町→常盤町 門前町→五番町へ統合 御坊町→桃井町 長清寺町→相生町