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2008年03月08日

●富山の仏教復興運動

 明治12年、本願寺第二十一世厳如上人が富山へ赴き、明治13年に説教所が設けられます。同じ明治13年に消失していた東本願寺の再建が始まります。これは廃仏毀釈の一応の収束を見越したからと推測されます。 

 1882(明治15)年8月、越中国(富山県)下新川郡にある某寺院は、土地では高名な真言宗の古刹でしたが、両堂の再建へは大いに賛意を表し、所有する山林にある巨木を寄進し、運搬に際して住職自ら旗を振って檀家を率いられたことが、当時の新聞に掲載されています。本山に寄贈された毛綱も、越中国(富山県)が最も多く16筋。続いて越後国(新潟県)15筋、羽後国(秋田県)10筋などとなっています。本山への協力がこれだけ厚かったのは、廃仏毀釈を経験した富山に仏教復興の機運が高まっていたからでしょう。

 明治17年、説教所は別院に昇格しますが、東西両別院設立について「富山市沿革史」に「これ明治三年廃寺合併以後、数多くの信徒を一室に集めて、説教を聴聞せしむる場なきに由り致す所のものなり」と記述されています。当時、別院の存在が切実なものであったことが伺われます。

 現在の別院の場所は、元は富山城の外堀でした。そこを埋め立てるために、神通川から土砂を運ぶ「砂持奉仕」が行われ、延べ7000人以上の門徒が参加したといわれます。こうした奉仕によって、明治21年に別院の仮本堂が総曲輪に誕生しました。

 廃仏毀釈の混乱の後、県内各地で「お講」が設立され、活発化します。それぞれのお講にご消息が下附されました。当時下附されたご消息は、現代から見れば問題が多い、明治政府方針に沿ったものでしたが、 越中の仏教再興を願いとした「お講」の意義が忘れられ、徐々に消滅していることが残念です。

 明治後期には県内に多くの石仏が建立されます。呉西は聖徳太子を祀る瑞泉寺の影響か「南無太子像」が多いのですが、呉東は「法蔵菩薩五劫思惟像」が多く作られます。法蔵菩薩の掛け軸も広く流布しています。 法蔵菩薩像は薩摩のかくれ念仏において、真宗門徒であることを隠すために、釈迦苦行像と偽って本尊としたものとも言われています。薩摩でも激しい廃仏毀釈が行われました。薩摩と富山のあいだにどのような関連があったのか研究が進められていますが、真宗への弾圧を連想させる仏像が廃仏毀釈後の富山で建立されたことの意味はなんだったのでしょうか。想像がひろがります。

●仏像への銃撃

 明治元年3月の神仏分離令を受けて、加賀藩は明治2年3月に、立山権現管下の芦峅寺・岩芦寺の神仏分離に着手していました。立山権現の「権現」の称号を廃して雄山神社と改称を命じ、芦峅寺・岩芦寺の衆徒をすべて僧形から神職に変えさせ、仏事関係の施設や仏像などの取り払いを命じました。これによって芦峅中宮寺では、姥堂や帝釈堂、布橋などが破脚されました。豊かな宗教習俗を形成してきた立山信仰は、政治によって変形させられ、現在に至ります。
 富山藩では明治3年10月4日、林太仲が大参事に任ぜられ、兵器鋳造のためとして、桜谷長慶寺にあった大仏の献上を強要し、この賞として閏10月24日に金千匹を下賜しています。この大仏破壊の際には寺院・信徒一同がせめて首だけでも頂けないかと懇願しましたが受けいられず、藩側では仏像をこも包みにして弾丸を撃ち込んで強弱を検査しました。
 こうして桜谷大仏は明治の廃仏毀釈により失われました。現在はそれを悼む信者より寄進された大仏頭が本堂内左側に安置されています。
 そして富山藩は、同月27日に、合寺令を発します。

●廃仏毀釈の政令

明治3年10月4日 林太仲 大参事に任ぜられる
10月12日 藩士卒一般に神葬祭を許可
閏10月初旬 永代経の厳修は7日間(当時は一ヶ月が一般的) 臨時法談は3日間に限る
閏10月7日 士族の女性の寺参詣を禁止
閏10月8日 宗教結社・私僧の禁止
閏10月9日 社寺境内に同居人を置き地代を徴収するすることを禁止
閏10月14日 寺院の時鐘及び太鼓使用の禁止
閏10月18日 藩庁よりの触状を迅速に行うように達し
閏10月19日 士卒郡市の寺院境内への埋葬禁止
閏10月24日 18日の達しに違反したとして処分、入牢、廃寺処分が命じられる
閏10月27日 合寺令発布
         他藩の僧侶を招待すること禁止 托鉢の僧尼を泊めること禁止
○当日 午前10時まで 遠村は午前0時までに 各寺へ兵卒を差し向け、
○28日中に家財・法具を取り払って合寺せよ
○29日午前6時に検分に来る
○藩内の要所に武装兵を配置し、門信徒を監視、藩外への連絡を絶つ
○(降雪期に入るため 取り払いは2月15日まで猶予に)
閏10月29日 女性の参詣は60歳以上、父母兄弟の忌日以外は差し止める
       寺へは供物のほか、一切の物品持参を厳禁する(市正・里正に命じる)
11月1日 他藩にある檀家を禁じる
11月4日 合寺強制後の寺院建物を至急取り払う
     寺院で還俗を願い出るものには建物、屋敷を下賜(各宗合計17ヶ寺が還俗)
11月10日 仏道鍛錬の輩には告寺後も寺号はそのまま差し置くが、そうでないものは廃寺
11月19日 合併後の真宗寺院全体の主寺公選を命ず
11月23日 告寺の強行に対する民心の動揺に対し、厳科に処す
11月24日 各寺檀家数の報告、檀家への年頭配り物を禁止
11月25日 合併所への違反参詣者の氏名を記帳し逮捕する
12月    村々から寺へ上納した仏給田に持分掛高に取り結ぶ
明治4年
1月26日 引き取り人なき旧寺院建物は旧寺院側で取り払うよう通達
1月 旧寺院の墓を長岡御廟所後草付の場所へ改葬すべし
   旧寺院跡開拓地、社寺領、村々より献納の仏給田、村方で調理せよ
廃寺や還俗した寺院の檀家は改宗自由、従来の宗旨を続けるものは各宗主寺の檀家とする
1月 町名改名
寺町→梅沢町 海岸寺町→八人町 寺内町→餌指町へ統合 古寺町→常盤町 門前町→五番町へ統合 御坊町→桃井町 長清寺町→相生町