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2008年04月21日

●別院創立記念碑について(法要パンフ用)

 富山別院は大火や戦火によって何度も消失しています。創立時から残っている、唯一のモニュメントが創立記念碑です。石碑の一部は損壊して読めません。それでも、明治維新の際に富山藩で廃仏毀釈があったこと、明治13年に説教所が建てられ、17年に別院へと昇格した際にこの石碑が建立されたこと、松任本誓寺の住職、松本白華がこの文章を書いたということが読み取れます。

 明治2年、富山藩合寺令事件が勃発しました。藩の命令によって多くの寺が打ち壊され、鐘楼・仏具が武器へと鋳潰され、僧侶が還俗を迫られている悲惨なありさまを目撃した白華は、政府、藩、そして本山に対して、次々と調査書や意見書を提出しました。彼のめざましい活動は、当初事件を静観していた政府の方針を変えさせ、富山の仏教を復興させる、大きな一因となりました。 白華に碑文を書いてもらったのは、富山の先人たちの感謝の念からであったのでしょう。

 念仏の道場としての別院を大切にして欲しい。創立記念碑は、現代を生きる私たちに、白華や先人たちの願いを伝え続けています。

2008年04月09日

●第1回公開講座 太田浩史(冒頭30分)

 富山別院が御遠忌を迎えるにあたって、それにふさわしい催しをしたいということをお伺いしまして そのなかで公開講座ということをやりたいというご相談を受けました。そのとき何をすればいいかということですが、別院というのが全国に60ぐらいあるんでしょうか。いまの合寺ではありませんが、不要な別院はなくしたらどうかとか、あるいは地域において別院を今日維持していく意味があるのかとかいろいろな議論を聞くわけです。たとえばこれから先、教区は統廃合されて合併されるが一つの教区に別院が3つも4つも必要なのだろうかと。しかも別院にはそれぞれ大小があったり、長い歴史を持った別院もそうでないものもあります。富山県で言いますと井波別院のような700年ぐらいの伝統のある、しかも教団史の上でも歴史的な意味を持つ別院がある。そうかと思うと、近世、とくに明治以降にできた別院もあるわけです。古いのが価値があって、新しいものはそうではないというような議論になってこないとも限らない。しかし、別院というものはどのお寺も必ず目的があって成り立っている。それがそんじょそこらの目的ではないものですから、今日的にもこれからも歴史的な意味があるのではなかろうかと。そういうことを 私、日ごろから思っておりまして。
 せっかく、富山別院の御遠忌に合わせてなにか皆で勉強するという機会を持つならば、やはり富山別院の歴史的意義について考えていこうじゃないかと。そうしたら、日本にあるたくさんの別院の中でも一際富山別院が持っている大きな個性とは何であろうかと考えたときに、廃仏毀釈がある。廃仏毀釈の荒れ果てた中から、寺もなにもなくなった状態から、この地域の精神的な拠り処として、一つの説教所として立ち上がってきた、あるいはこの地域にたくさんあった民衆のお講の中心道場として立ち上がってきたという。そういう歴史が見えてくる。
 そうしますと、廃仏毀釈とはなんであるのかを考えてみる必要がある。そうしたときに、明治のごく初期に起こった、しかもきわめて短時間、限定的に言えば、2.3年の間に起こった。しかし、その廃仏毀釈が、現代社会、私たち真宗門徒、あるいはお寺としての身の上にも、あるいは現代の日本人、日本社会の持っている精神的な構造に深い意味、あるいは傷跡を与えている。そしてそのことの自覚や解明がなされないと、私たちにとって的確で明るい未来を開いていくことはできないのではないかと。このようなことを思いまして、テーマを廃仏毀釈に絞ってやってみてはどうかという提案をさせていただいた。ところが、依頼を受けた私自身が、もう少し古い時代を勉強したことはありますが、近代というのはぜんぜん門外なのです。しかも、私は高岡教区。この富山教区、なかんずく旧富山藩領の事柄は何も知らない。ところがスタッフで集まられた方々はまさにそこにお寺があった。あるいは廃仏毀釈とつながりのあるお寺なのです。ならば、皆で調査研究をしてそれぞれの成果を持ち寄って総合発表するという形はどうですかということになりました。それぞれがそれぞれのテーマを持って、こうして研究をなさいました。それをまとめるような話をしなければならないのですが、実は私はそれだけの力を持っておりません。しかしこの研究のテーマはそのうち一つの冊子となって刊行されると思っておりますが、非常に意味があったと思っています。皆で議論をしながらここまで考察を深めてきたことに非常に意味があったと思います。また、これは本願寺派の学者の方ですが栗光先生にも着ていただいて、ご意見をいただきました、その中で、富山藩領における合寺という形の廃仏毀釈が富山県だけではなくて、日本の歴史、精神史の上で大きな意味があると、私自身が感じるようになってまいりました。これは来る5月12日の第2回の公開講座において、最終的なまとめという形になると思います。阿満利麿先生をお迎えするわけですが、日本の明治国家、明治国家成立に伴う精神史の流れをライフワークとしておられる方ですから、私たちの研究とうまく絡んで、なんらかの成果が現れるのではないかと期待しているところです。
 私は3日ほど前、九州の都城へ行ってきました。そこは今は宮崎県と言っておりますけれども、昔は薩摩藩でした。薩摩藩というのは江戸時代を通じて真宗を徹底的に禁止し、迫害しました。かくれ念仏のお講がたくさんできていた。そこへご本山の本尊などを運び込むのは、富山の売薬であった。売薬を通じて本山と密接な関係があった。そうした迫害を受けながら江戸時代を通じて30万人とも言われる人が犠牲になった。そういう念仏弾圧の中で育ってきた信仰がある場所です。しかし、いま「篤姫」という大河ドラマをやっていて、篤姫はいつも念持仏をもっていますが、島津家というのは真宗以外の仏教にははなはだ熱心なところだった。ところが、幕末から明治の初めにかけて、島津久光という藩主が、水戸の徳川斉昭と関係がありまして、そこの藤田東湖という水戸学の思想家と関わりがあって、明治維新と同時に、突如猛烈な仏教弾圧を始めるのです。これは徹底していまして1066ヶ寺の寺院がことごとく破壊されて、2600ほどの僧侶が還俗させられたといわれています。
 都城の郊外にある神社がありまして、国指定の重要文化財なのです。明治時代にできた神社がなぜ重要文化財なのか、不思議に思いました。その神社は近くにあった島津家の菩提寺の一つを壊して、その材木で建てたのです。その建物の中にご神体が祀ってあり、厨子があるのですが、鎌倉時代のもので元は薬師如来を収めていたのです。それが珍しいということで重要文化財になっているのです。本殿の裏に行きますとお寺があった場所が廃墟になっているのですが、そこにたくさんの石仏や石塔などいろいろなものがありまして、整備されて立っているのです。島津家の廃仏によって石仏群は田の中に埋もれていた。それを村の人たちが掘り出してきて、並べたのが大正9年。その年に皇太子、後の昭和天皇がおいでになった記念で並べたと解説されていました。不思議なことです。
 お寺が完全に破壊されたというのは、あちらではどういう意味を持つかといえば、お寺が神社になるということです。向こうの神社に行きますと、不思議なことに鳥居の横に、狛犬ではなくて、仁王が立っている。私たちから見れば不思議なことなのですが、あちらの人たちは当たり前だと思っている。なぜ鳥居の横に仁王がいるのかというと、それはお寺だったからです。
 このようにして、今から130年ほど前に起こったことも、何も考えずにいきますと、おかしなことが当たり前になるのです。
 神社で結婚式で挙げて、披露宴はホテルというのが一般的です。神社で神式の結婚式を挙げるというのは「古式に則り」といいますが、それは江戸時代にはまったくなかったことです。最初に神社で結婚式を挙げたのは大正天皇なのです。明治33年に、九条節子という方と結婚なさったときに、日本人で初めて神社の前で神式で結婚式を挙げ、帝国ホテルで披露宴を行った。それを皆、真似したのです。最初は上流階級が真似したのですが、戦後はそれが当たり前になって、昔から神社で結婚式をやるものだと思っている。
 大正天皇のときは、当時の神主さんは結婚式のやり方が分からないわけです。当時、渋谷に伊勢神宮の拝殿がありまして、そこの神主さんが考え出したのです。それが関東大震災を経て、千代田区に移り、東京大神宮という名前になっています。今では宮崎あおいさんが結婚式を挙げたり、若者の間では縁結びの神だと人気がありますが、それはそういうことなのです。
 富山には梅沢町がありますね。これは以前は寺町と言ったのです。これは廃仏毀釈以来なのです。私のおります福光町や金沢市に御坊町があります、そこに大きなお寺があった。江戸時代は寺社奉行がありました。今はなぜか社寺と言います。社寺建築とか。江戸時代は寺大工と言ったものが、今は宮大工と言いますね。これらはやはり、明治の廃仏毀釈ということを考えざるを得ないのです。
 江戸時代に御本山が76年間に4度も焼けておりまして、門徒さんが人足奉仕としてたくさん行くのですが、一番多かったのは越中だったと言われています。その意味で門徒の団結の強かった場所だろうと思います。第3次再建というのがありました。親鸞聖人の600回御遠忌の3年前に本山が焼け、突貫工事で御遠忌に間に合わせた。東西両本願寺、合わせて100万人の人が参詣したと言われる。そのとき、まさか富山で廃仏毀釈、真宗の寺院が一ヶ寺を残してすべて潰されるということは当時の人は夢にも思わなかった。しかし、その頃すでに、ペリーが浦和に来る。国学者が出てくる。新撰組が西本願寺を屯所にする。そのようにして不穏な空気が感じられる。しかし、越中、日本は大きな激動の渦に巻き込まれて、私たちは基本的な精神生活も、なにからなにまで変貌してしまうという予想は立たなかったと思うのです。しかし、その頃すでに水戸藩の藤田東湖が「仏教無用論」を出しています。仏教は役に立たないものであり、これからは挙藩一致して日本の国体を確立して攘夷を果たさなければならない。欧米列強と戦って、勝たなければならない。そんなときに仏教は何の役にも立たないから、適当な数に整理して、寺領を田にし、釣鐘、仏具を大砲にせよと進言し、藩主、水戸斉昭は実行した。そのときに、すでに始まったのです。斉昭が行った影響で、当時の孝明天皇が「攘夷の詔」を出しますが、寺の梵鐘を大砲にせよと言っています。これを東西本願寺が、謹んで受けよという命令を出しています。
 ですから、廃仏という時、必ず象徴的なのが、釣鐘が大砲になるという。これが第二次世界大戦中、私たちの寺の釣鐘もほとんど残らなかった。あのときにはじまったのではなく、前例を作ってきた。それを私たちの教団も、勤皇思想とか武力で脅されるとかする中で、それを容認してきたということがあります。今後、それが続かないとも限らない。そのあたりの歴史の流れをよく把握しなければならない時だと思います。

さて、藤田東湖は仏教が大嫌いでした。そのところに平田篤胤が現れる。その平田篤胤の神学思想と