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2007年07月04日

●第二講 教行信証と仏心仏土 2

(未完)

●第二講 教行信証と仏心仏土 1

以下は読書ノート

行に信を開き、証に仏心仏土を開かれたところに親鸞の己証がある。これより考えて信と仏心仏土の別開は同じ問題であるといわねばならぬ。行より信を開いた意味を一層明らかにするために証より仏心仏土を開かれたわけである。

「真仏土巻」を結ぶところに「真仮を知らざるに由って、如来広大の恩徳を迷失す。」とある。これは非常に容易ならぬことである。仏土を述べてきたのは、ただそれを述べてきたのではなく、仏土の真仮を分かつということに容易ならぬものがあるからである。親鸞以前も浄土は伝承されたが、真仮はなかった。真仏土と化身土を区別し、真仏土と化身土を明らかにしてくるということは重要なことである。如来の恩徳を知るために仏土に真化を分けられたことは、まことに容易ではない。しかも仏土は仏に関係したことであるが、仏土に真仮があるとは、それを自覚として求めれば、信心というところに真仮があることになる。信心に真仮を分かつということになると、それは至心信楽と至心発願・至心廻向の三願がある所以であることになる。仏土に真仮があるのは、われわれの信心の問題である。浄土の問題は、信心の問題であることを示す。信心に真仮があることになる。このように真仮という言葉のあることからして、浄土の問題は信心の問題と非常に関係が深い。「真仏土巻」「化身土巻」とは「信巻」別開と同じ意味を持つのである。

信は浄土の門の意味を持つ。「教行信証」全体が浄土の門を明かすのである。前四巻の門をくぐって触れる世界を仏心仏土と明かされるわけである。門を通して、つまり我々の真仮の自覚を通して、浄土に触れる。門は浄土の門であるが、その門は穢土、すなわち我々のところにある。このように信心の問題と深い関係があることが大切である。

行より信を開くのと同じく、証より真実の土を開く。証は浄土の証である、浄土に成就されてある。浄土に我々の滅度が成就されてある。真実証が成就されてあるような浄土を真土というのである。証は「証巻」にあるが、必死滅度を転釈して、まず滅度より始まって真如、一如に帰結されてある。

一如、法性、真如ということは、今の言葉でいえば、真の実在ということであろう。我々の安心は、その一如に触れていえることである。

教行信証といったとき、それを通して我々が本来の滅度にかえる、自己、自性にかえったのが成仏ということである。

浄土はあくまで仏の土である。仏の浄土、仏心仏土において我の本来の一如が象徴されてある。よって浄土において本来にかえる。浄土に召されるというように、仏よりは召す、来たらしめる。我々は往く。往くことで実はかえるわけである。往くことによってかえるというところに真の仏土が表わされる。

浄土の真証の門は金剛の信心、至心信楽である。これは認識の信仰によって触れる浄土のさとりである。自己を超えてそこに触れるさとりであって、公開的である。これを安楽浄土といわれる。これに対して定散の信は自力で、自己の胸のうちに見出し画いたさとりで、体験的であるから、個人的主観的なもので、閉鎖的である。各人各別のさとりである。これは方便化身土を表わす。これらはいずれも証についていわれることである。

どこまでも衆生を衆生として掘り下げる道が如来に近づく道であり、如来に遇う道である。大地を掘り下げていく。そこに天上に触れるのである。

前(四巻)には、如来の本願が南無阿弥陀仏を体として衆生に成就したのを教行信証といった。真仏土は仏の本願が仏として成就したことを明らかにする。衆生を助けんという本願が成就して仏となった。このような仏を明らかにする。これを酬報という。前四巻は如来の本願が衆生として成就した。これを回向という。今度は衆生を助ける願が成就して仏となる。すなわち衆生と如来が交互に媒介している。衆生と如来と、どこまでも分かれつつ、総合している。だから一如である。

機法の分際を明かして始めて感応道交する。衆生は衆生のまま、如来は如来のままで相応する。これが自覚道である。

真実報土は純粋に仏の世界、化土は人間の延長として考えた浄土である。純粋の仏の自証の世界の意義、この一点を明かすのが「真仏土巻」である。

2007年06月10日

●第一講 生命の構造 2

以下は読書ノート

前四巻は教行信証を回向に包んで、回向された教行信証、これを往還二回向で述べてある。
回向は衆生の上にある。

仏のまこと(徳)がそのまま衆生の上に成就するのを回向という。これが真実である。仏の名たる南無阿弥陀仏が我々の成仏の身となるというわけである。我々の行は本願の行であり、即ち南无阿弥陀仏である。よって「本願名号正定業 至心信楽願為因」とある。至心信楽は仏の御心である。仏の御心は、機の深信である。我々衆生の痛みは、我々の思いや反省ではない。仏の痛みとしてある。その深い仏の大悲心が信楽である。また証というのは真実信心の利益である。教行信証はことごとく如来が我ら衆生となって成就してくだされた道である。それ故に回向であるわけである。

浄土に回向ということはないのであって、回向は教行信証、即ち我々の上にある。その回向を通して触れる世界が浄土である。

衆生が己を徹底するところに浄土が開け、仏がある。衆生たることを忘れれば、仏も化仏であり、土も化土である。真の浄土は衆生の自覚にある。これが仏道の本来の精神である。仏道は自覚道である。自覚のみがよく人間を超えしめる。救済も、自覚のみが救済たり得る。どこかからどこかへ往くのでない。飛躍や忘却でない。まして人間にとどまることでもない。人間を人間と知るのが、人間を超える道である。

聖道門を捨てるというが、仏教の精神を捨てれば、浄土教は外道となる。阿弥陀様は困ったものを救うというが、それだけでは方便化仏である。あくまで衆生の道を明かす自覚が大切である。真実報土に往生するといわれるが、前四巻を明らかに頂けば、往かずして往く、来ているということである。往くは方便化土、来迎は化身である。だから衆生を明らかにすれば、感得されるわけである。触れればよいのであって、ここへ出てくるのではない。触れる機(自己)を磨けば、仏は映る。自己を忘れて仏を求めるのは、自己の分際を知らぬからである。仏教は、自己を磨くことである。磨けば映る。如にして来ているわけである。仏に触れればよい。その触れる道が教行信証である。触れたのを摂取不捨とか現生不退という。よって仏に触れるのを前四巻で明かし、触れた仏を明らかにするのが第五巻である。仏に照らされた眼で、照らした仏を明らかにするのが第五巻である。

2007年06月09日

●第一講 生命の構造 1

以下は読書メモ

「浄土論」では器世間・衆生世間を総合するのに願心荘厳をもってされる。願心が総合しているわけである。

昔から国土に対して仏は主体、国土は客体と考えているが、それは無理であろうと思う。主体はむしろ心である。身は土に対しては主体かもしれぬが、身の主体を求めれば心であろう。だから身が主体とというよりも、身も土も客体である。

さて、身と土を総合するのは心である。心が無為涅槃の中に新しい世界を見出してくる。これは、我々よりは安心、仏よりは願心である。つまり涅槃の中に精神生活を見出すわけである。人間を超えた仏の世界に我々の生活を見出す。その生活を身と土で表すわけである。器世間は土、衆生世間は身であるが、体はいずれも色法である。器世間は外の色法であって、外なる物質を土という。内なる物質を身体という。このように内外をいうのは、心がいうわけである。心の中に見出されたのが身、外に見いだされたのが土である。身体は自覚そのものの内容である。

他人の感覚は想像されるものであるから不共という。これに対して外の環境は共同である。

環境はどこまでも土であって共同であるが、心は不共同である。土は我と衆生と共同する。しかも浄土は仏だけのものであるが、仏が荘厳される土である限り共同のものがある。そこに如来の正覚と一如であるという意義が明かされてくるのであろう。

所帰の土には、身と土の区別があるが、「観彼世界相 勝過三界道」とか、あるいは二種世間荘厳功徳とかいわてあって、いずれにしても所帰たる、つまり帰している、帰すべき世間(身・土)を表している。これまでの顕真実教・行・信・証四巻を通して感得され、帰している世間を表すのが第五巻である。前四巻では能帰の心を明かし、第五巻については帰すべき身土なれば可帰の身土といわねばならぬ。可帰とは超越性を意味する。安心の対象面を表す。今第五巻は所帰とある。これは安心の内容を表す。帰しているものであって、帰すべきものではない。能帰の心が内に感得しているものを表す。

能は機の自覚のみにある。信が能帰である。前四巻は能帰の機とあるが、さらに能帰中の能帰は信にある。結局、教行信証は大信心におさまる。しかもこの大信心の感得するものが、「真仏土巻」にあるわけである。

 換言すれば教行信証は我々にあるが、真仏土は機を離れた法であることが大切である。信も如来より賜った信なるゆえに四法としてある。しかも信を賜ったことをおさえていけば、能帰の信として衆生にある。衆生に頂いた法であって、その自覚は衆生にある。これに対し真仏土は仏に属する。衆生の自覚を通して感得された、しかも衆生を超えた仏の世界を明らかにする。浄土は仏の世界であるが、浄土の自覚はここにある。それで「浄土の真証」といわれる。

 前四巻は浄土の門(自覚の門)というものを広く明らかにされた。浄土の門は穢土にある、即ち信心、自覚を通してある。浄土は穢土を超え、穢土を包むものである。