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2008年12月25日

●別院碑文解読(尾田武雄氏)

別院の綺麗な写真、拝見しました。碑文を読みましたので参考にしてください

富山市東本願寺 碑銘解読                           

(碑文)               
              被
             而教法
□□□□□年庚午歳富山藩布合寺旨教
□□免有泰否一令悉使寺院毀大政維新
之圀是廃藩置縣之變徙其間信徒復振起
振起果由明後年明治十有三年紀闢城内
總曲輪址春三月望之經始建設本願寺云
□誰作記者白華子誰立石者桃塚氏
  明治十七年甲申四月相賀( )( )( )華
    釋厳護撰并書
(左側面)明治十八年□□□ 首誘 桃塚 平□
          取持周旋 婦負   橋□□□
                    藤□□□           
その他の残欠
①「江萬      
 史教法
□ □□□
□ □明治
□    」
②「□□立山
□ □□無
□ □□必
□ □此王」
③「更有神通木洵美難
       日朝」 

(読み)
         
□(維)□(時)明治三年庚午(カノエノウシ)歳富山藩布合寺旨教
□□免泰(タイ)否(ヒ)有リ一令悉ク寺院ヲシテ毀(コボ)タシム、大維新
ノ国是、廃藩置県ノ変徙(ヘンシ)、其ノ間信徒複ヒ振起(シンキ)ス。
振起果(ハテ)テ、明後年明治十有三年ヨリ城内
総曲輪址ニ紀闢(キシャク)シテ、春三月望之ヲ建設ヲ経(ケイ)始(シ)ス。本願寺ト云フ、
□誰(コレ)ヲ作記者ハ白華子、誰ノ立石者ハ桃塚氏ナリ。
 明治十七年甲申四月相賀(松)(本)(白)華
    釋厳護撰并書
(左側面)明治十八年□□□ 首誘 桃塚 平□
          取持周旋 婦負   橋□□□
                    藤□□□

(解釈)
 明治三年に富山藩の合寺の旨の布れにより、教
(不明)動揺させられた。一令で悉(ことごと)く寺院を毀(こわ)した。大政維新
の国是、廃藩置県の移り変わり、その間信徒が再び奮い立ち。
奮い立った後、明後年の明治十三年より富山城内の
総曲輪址に開き始めた。春三月十五日に建設を進める。これを本願寺と云う。
此れの文章は白華子、此れの立石は桃塚氏なり。
 明治十七年甲申四月 相賀松本白華
    釋厳護撰并書
(左側面)明治十八年□□□ 首誘 桃塚 平□
          取持周旋 婦負   橋□□□
                    藤□□□

2008年08月24日

●別院碑文

              被
             而教法
明治   季庚午歳富山藩布合寺旨教
   免有泰一令悉使寺院毀大政維新
之国是廃藩置県之変徒其間信徒復振起
  果由  耳明治十有三年 紀開城内
総曲輪址春三月望之経始建設本願寺云
    者白華子  石者 塚氏
明治十七年 申四月加賀松任白華
釈厳護並書

2008年07月11日

●公開講座報告(「富山如大地」原稿)

公開講座開催にいたる経過については富山如大地第121号、「真宗」2008年1月号「今月のお寺」を参照していただきたい。

第一回公開講座 3月24日
参加者は100名。まず、実行委員がそれぞれの研究報告をおこなった

「富山東別院創建記念碑について」石川正穂
碑文を記した松任本誓寺住職、松本白華は合寺事件に対応した教団の知識人たちの一人であった。
事件後、彼らは教団の近代化に向けて邁進したが、それは天皇制国家体制確立への追随することにもなった。

「林太仲は仏敵か?」永崎暁
富山藩大参事、林太仲が合寺令を発布した背景には、藩財政の逼迫と、寺院、僧侶が為政者から「無用の長物」とされたという、経済的な要因が強かった。
現代にもつながる経済と仏教との関係について考える必要がある。

「合寺事件の歴史的意義」長真寿
地元寺院、門徒は、表立って権力と戦わなかったが、表面的には随順を守りながらも、実際には団結を固めて信仰を守った。
合寺事件に対する建言、嘆願が廃仏毀釈に傾いていた政府を動かした。

「浦上キリシタン配流事件 弾圧者<加害者>としての真宗寺院」安川潤
真宗寺院はキリシタン弾圧に積極的に協力していたが、合寺令の発布によって同じく信仰を弾圧される側に立たされた。
寺院を合寺事件における被害者であると固定するのは一面的である。

「廃仏毀釈と女性」見義悦子
廃仏毀釈を退けることができたのは、災害と飢饉のなかで貧しい生活を支えていた女性たちが、念仏を必要としたからではないか。
一日一日を地を這うように生きていた人々に、念仏は生きる力を与えていたのではないだろうか。

引き続き 高岡教区 太田浩史氏が「激動の富山仏教 -日本最大の廃仏毀釈が現代に問うもの」と題して講義。水戸藩の廃仏毀釈、明治元年の「神仏判然令」から、富山藩合寺令の廃止を経て、すべての宗教が国家に奉仕する宗教形態が定まるまでの歴史の経緯を紹介された。

第二回公開講座 5月12日 参加者は80名

阿満利麿 明治学院大学名誉教授が「宗教と政治」と題して講演された。
第二次大戦時の梵鐘供出の無念さを忘れないため、巨石を吊り続けている長野県称名寺の鐘楼を紹介。大戦時に再び梵鐘を供出させられた富山の寺院には、無念の思いはなかったのだろうかと問題提起された。政治は暴力を認め、暴力を否定する宗教とは一番遠いところにある。慈悲を旗頭にする仏教の立場を貫けば国家の暴力と対立せざるをえないという現代の課題を、高木顕明の生涯を交えながら話された。

講演後、阿満氏と太田氏が対談し、合寺事件研究をまとめ、参加者からの質問を交えて現代の諸問題について話し合ったことであった。

2008年05月13日

●第二回 公開講座 阿満利麿講義ノート

(文責は流星)
念仏者九条の会ポスター 大きな石 長野県称名寺
巨石をつらす 供出 戦争中 金属が不足し弾薬 国内のもつ金属をかき集める
1941 金属回収令 指輪 時計 キセル 火鉢 火箸 電車の複線を単線に
国民の持つ金属 格好のターゲット 全部供出 供出の法要
敗戦後 鐘楼は重いものをつるしておかなければならない コンクリート 岩
鐘楼を守る 石を釣り続ける あまりにも無念だった
仏法を響かせるもの 教えるものが 殺生の 戦争の道具になった
それに対して無力であった 無念の思いを忘れないためにつるし続けた
戦争放棄は釈迦の教え 念仏者に大切な教え

金属回収令 東西本願寺は熱心だった
西は命日16日 金属回収の日 檀家を回る
供出を命じる 促す 国家のお先棒を担ぐ
無念の思い 念仏はそんなに無力であったのか
慈悲に背く行為
富山の廃仏毀釈 梵鐘仏具類で大砲を作る
明治維新 二回ひどい目にあう 無念の思いはなかったのか 念仏はそんなに無力なのかノーと言えなかったのか そのときはしょうがなかった
仕方がない 戦争 後期医療制度 念仏は無力ではなかった 力強い念仏もあった
同朋会運動 高木顕明 すばらしい話もしらないかもしれない

1904年 愛知県 和歌山 新宮
あまりにも苦しい差別をみる お布施をもらえない マッサージ
自分で稼ぎなさい 坊主はボランティア
経済的な余裕があれば 読み書きを教える
廃娼運動 時の流れに同調するのが真宗? 戦勝祈願 親鸞聖人の書かれたものに戦のために祈願せよと書いてあるか できません 非戦論 水平社の前に差別に憤りをもつ
部落解放の運動 1910 大逆事件

なぜ捉えられたのか分からない 幸徳秋水 24名死刑 無期懲役
無念の思いではない念仏がある
信心をうると 思想は一遍せざるをえない
みほとけのなしめたること 行ぜしめることを やりたいと思う
念仏をしながら戦勝祈願ができるのか
名号は 万人を平等に救う教え
念仏をしてエリートや権力者にできるのか
彼らは民衆は馬鹿にしている 人権をみない ビルマ軍事政権
名号は力の弱い大衆の救いを第一としている
念仏をしながら生存競争を肯定できるか
平等な存在なのに 強者と弱者を分けてよいのか
念仏をしてめざすべきは 共同生活 働いて得た糧で仏法を喜ぶ
生存競争ではない生活をめざすべき
向上進歩 戦争をしない 差別を否定する

阿弥陀仏の慈悲を暮らしの基準とする 慈悲にたずねる
そのために大逆事件にあう 行く手を阻んだのは差別と戦争
国家の二大悪 国家が戦争する 国民は戦争を望まない
国家を縛るのが憲法 国民と国家は違う 戦争は国家でしかできない 差別を国家が生み出し肯定しているから 差別と戦争に高木はぶつかった
その伝統がなぜ継承されなかったのか

日本の近代国家は 宗教に厳しい弾圧をし続けた
1868 5月 明治政府 キリシタン弾圧 近代日本の始まり
パークスの抗議 みかど崇拝のためにやっている 危うくするものは弾圧する
これは国内問題 1873高札をさげる 天皇崇拝を危うくするものは弾圧する
肯定する宗教だけを認める 仏教は天皇に擦り寄るしかない
天皇制に奉仕するすることを教義に入れる 信俗二諦 信心は信心 天皇は天皇
政府はキリスト教の布教を認める 個人の内面の信仰は認める
社会に働きかけるのは許さない ウチと外に分断する
宗教は私事であると決める 宗教を個人の私事に閉じ込める
信教の自由 安寧秩序の範囲内 宗教の論理ではなく国家の都合のみ
宗教の本質を見抜いていた みかど信仰は 本当の宗教にかなわない
仏教教団は 政治の本質を見ぬことをせず 国家に奉仕していった
教団は組織の防衛を優先させる 言いなりになる
とびくる弾丸 なむあみだぶつの声 弾丸を受けましょう
力強く念仏しながら死んでください


ねぜ念仏に生きようとすると政治とぶつかるのか
高木は擬似宗教天皇制 国家とぶつかる 宗教と一番遠いところにあるのが政治
人間の営みのなかで宗教と政治は間反対

政治は暴力を認める 宗教は暴力を否定する
宗教の道を歩めば政治から弾圧される
暴力とは何か もっとも恐ろしい暴力 人を手段としてあつかう
数字あつかい 人格や顔でない 相手の意思に反して 自分に従わせる
最後は物理的力で 法律で 導いていく
法律は正義ではない 人間の社会の秩序はその世界の人々が納得すればいい
それはない あるのは釈迦の僧伽ぐらい そうしたルールはない
秩序を維持する 価値基準 反対する人は出てくる
その人を閉じ込め 排除し 差別する それが必然

被差別部落はなぜ作られたのか 天皇制国家に反するかどうかの踏み絵
特定の人の集団をつくり それを認めるのか認めないかを示すため
差別する人は必要 秩序のために差別が存在する
フリーター 同一労働は同一賃金はずなのに 賃金を差別する
会社の秩序に従うかどうかを確認する

格差は差別 グローバリズム アメリカ 貧しさのために兵士として生きるしかない人々
格差社会で社会に這い上がれないようにして 戦場に送る 石油確保

国家は差別と排除で秩序を保つ 暴力を行使する
暴力は我われの 政治だけではなく 我われ自身がもつ
自己中心の場合に暴力的政治的になる
政治は自分と無関係ではなく 私のなかの暴力とつながっている


政治は暴力を肯定せざるをえない
9.11 暴力の日常化 慙愧がなくなる 排除が当たり前
戦争を罪悪視していたのに 戦争ができるのが「普通の国家」となる
人間の世界から紛争はなくならないが その解決方法
解決は非暴力で可能 非暴力で解決していく
念仏は非暴力の中心 非暴力の価値する

非暴力とは 真理を固く握る
真理を説く 行使する 政治の対極にある宗教

高木 念仏がどのような姿をとるべきかをしめしたが 教団は僧籍を剥奪した
歎異抄の流罪の記録 歎異抄は流罪の記録があっての歎異抄
信心とはなにか 信心を手にするとどういうことが起こるか 流罪
朝廷は法然、親鸞の仏教が広まると 慈悲が広まると危険と知った
旧仏教 修行による序列がなくなる 同朋になる 慈悲の平等
本願念仏を弾圧する 法然ほど長期に弾圧を受け続けた僧侶はいない
墓を暴かれ 版木を焼かれる

慈悲の立場を貫けは暴力とぶつかる それを承知せよ

念仏とは何か 阿弥陀仏の事業に参加する行為
罪悪の私だが 念仏称えれば
あまねくもろもろの 貧しさ 苦しさを 救いて
阿弥陀仏の教えが広がるようにしたい
清沢満之 念仏は阿弥陀仏の教えを伝える「導器」である

阿弥陀仏の慈悲があるから生きていける
辛くて悲しい時代は生きていけない
凡夫が慈悲をささえるのが浄土の慈悲
念仏を称えると二種の智慧がわく
自他平等の智慧 一人一人が違うことが分かる智慧
暗闇を生きる必要はない 阿弥陀仏の事業を担いたい
高木 だれでも念仏すれば ほんの少しだけ他人のことを考えられる
凡夫であることに 絶望ということはない また本願を仰ぐ 挫折してお念仏 また力がわく

阿弥陀仏の事業に参加する 行動が必要 真宗は国際的ボランティア団体をもたない
末寺の寺を開放してほしい 自由な空間
政治が作り上げた窒息に対する自由な空間を
新しい念仏集団 寺の改革では間に合わない
僧は政治家 既成仏教に期待してはいけない 在家の門徒ががんばる
信心の立場の向こうに政治がある それを承知の上で信心の道を歩む

2008年04月21日

●別院創立記念碑について(法要パンフ用)

 富山別院は大火や戦火によって何度も消失しています。創立時から残っている、唯一のモニュメントが創立記念碑です。石碑の一部は損壊して読めません。それでも、明治維新の際に富山藩で廃仏毀釈があったこと、明治13年に説教所が建てられ、17年に別院へと昇格した際にこの石碑が建立されたこと、松任本誓寺の住職、松本白華がこの文章を書いたということが読み取れます。

 明治2年、富山藩合寺令事件が勃発しました。藩の命令によって多くの寺が打ち壊され、鐘楼・仏具が武器へと鋳潰され、僧侶が還俗を迫られている悲惨なありさまを目撃した白華は、政府、藩、そして本山に対して、次々と調査書や意見書を提出しました。彼のめざましい活動は、当初事件を静観していた政府の方針を変えさせ、富山の仏教を復興させる、大きな一因となりました。 白華に碑文を書いてもらったのは、富山の先人たちの感謝の念からであったのでしょう。

 念仏の道場としての別院を大切にして欲しい。創立記念碑は、現代を生きる私たちに、白華や先人たちの願いを伝え続けています。

2008年04月09日

●第1回公開講座 太田浩史(冒頭30分)

 富山別院が御遠忌を迎えるにあたって、それにふさわしい催しをしたいということをお伺いしまして そのなかで公開講座ということをやりたいというご相談を受けました。そのとき何をすればいいかということですが、別院というのが全国に60ぐらいあるんでしょうか。いまの合寺ではありませんが、不要な別院はなくしたらどうかとか、あるいは地域において別院を今日維持していく意味があるのかとかいろいろな議論を聞くわけです。たとえばこれから先、教区は統廃合されて合併されるが一つの教区に別院が3つも4つも必要なのだろうかと。しかも別院にはそれぞれ大小があったり、長い歴史を持った別院もそうでないものもあります。富山県で言いますと井波別院のような700年ぐらいの伝統のある、しかも教団史の上でも歴史的な意味を持つ別院がある。そうかと思うと、近世、とくに明治以降にできた別院もあるわけです。古いのが価値があって、新しいものはそうではないというような議論になってこないとも限らない。しかし、別院というものはどのお寺も必ず目的があって成り立っている。それがそんじょそこらの目的ではないものですから、今日的にもこれからも歴史的な意味があるのではなかろうかと。そういうことを 私、日ごろから思っておりまして。
 せっかく、富山別院の御遠忌に合わせてなにか皆で勉強するという機会を持つならば、やはり富山別院の歴史的意義について考えていこうじゃないかと。そうしたら、日本にあるたくさんの別院の中でも一際富山別院が持っている大きな個性とは何であろうかと考えたときに、廃仏毀釈がある。廃仏毀釈の荒れ果てた中から、寺もなにもなくなった状態から、この地域の精神的な拠り処として、一つの説教所として立ち上がってきた、あるいはこの地域にたくさんあった民衆のお講の中心道場として立ち上がってきたという。そういう歴史が見えてくる。
 そうしますと、廃仏毀釈とはなんであるのかを考えてみる必要がある。そうしたときに、明治のごく初期に起こった、しかもきわめて短時間、限定的に言えば、2.3年の間に起こった。しかし、その廃仏毀釈が、現代社会、私たち真宗門徒、あるいはお寺としての身の上にも、あるいは現代の日本人、日本社会の持っている精神的な構造に深い意味、あるいは傷跡を与えている。そしてそのことの自覚や解明がなされないと、私たちにとって的確で明るい未来を開いていくことはできないのではないかと。このようなことを思いまして、テーマを廃仏毀釈に絞ってやってみてはどうかという提案をさせていただいた。ところが、依頼を受けた私自身が、もう少し古い時代を勉強したことはありますが、近代というのはぜんぜん門外なのです。しかも、私は高岡教区。この富山教区、なかんずく旧富山藩領の事柄は何も知らない。ところがスタッフで集まられた方々はまさにそこにお寺があった。あるいは廃仏毀釈とつながりのあるお寺なのです。ならば、皆で調査研究をしてそれぞれの成果を持ち寄って総合発表するという形はどうですかということになりました。それぞれがそれぞれのテーマを持って、こうして研究をなさいました。それをまとめるような話をしなければならないのですが、実は私はそれだけの力を持っておりません。しかしこの研究のテーマはそのうち一つの冊子となって刊行されると思っておりますが、非常に意味があったと思っています。皆で議論をしながらここまで考察を深めてきたことに非常に意味があったと思います。また、これは本願寺派の学者の方ですが栗光先生にも着ていただいて、ご意見をいただきました、その中で、富山藩領における合寺という形の廃仏毀釈が富山県だけではなくて、日本の歴史、精神史の上で大きな意味があると、私自身が感じるようになってまいりました。これは来る5月12日の第2回の公開講座において、最終的なまとめという形になると思います。阿満利麿先生をお迎えするわけですが、日本の明治国家、明治国家成立に伴う精神史の流れをライフワークとしておられる方ですから、私たちの研究とうまく絡んで、なんらかの成果が現れるのではないかと期待しているところです。
 私は3日ほど前、九州の都城へ行ってきました。そこは今は宮崎県と言っておりますけれども、昔は薩摩藩でした。薩摩藩というのは江戸時代を通じて真宗を徹底的に禁止し、迫害しました。かくれ念仏のお講がたくさんできていた。そこへご本山の本尊などを運び込むのは、富山の売薬であった。売薬を通じて本山と密接な関係があった。そうした迫害を受けながら江戸時代を通じて30万人とも言われる人が犠牲になった。そういう念仏弾圧の中で育ってきた信仰がある場所です。しかし、いま「篤姫」という大河ドラマをやっていて、篤姫はいつも念持仏をもっていますが、島津家というのは真宗以外の仏教にははなはだ熱心なところだった。ところが、幕末から明治の初めにかけて、島津久光という藩主が、水戸の徳川斉昭と関係がありまして、そこの藤田東湖という水戸学の思想家と関わりがあって、明治維新と同時に、突如猛烈な仏教弾圧を始めるのです。これは徹底していまして1066ヶ寺の寺院がことごとく破壊されて、2600ほどの僧侶が還俗させられたといわれています。
 都城の郊外にある神社がありまして、国指定の重要文化財なのです。明治時代にできた神社がなぜ重要文化財なのか、不思議に思いました。その神社は近くにあった島津家の菩提寺の一つを壊して、その材木で建てたのです。その建物の中にご神体が祀ってあり、厨子があるのですが、鎌倉時代のもので元は薬師如来を収めていたのです。それが珍しいということで重要文化財になっているのです。本殿の裏に行きますとお寺があった場所が廃墟になっているのですが、そこにたくさんの石仏や石塔などいろいろなものがありまして、整備されて立っているのです。島津家の廃仏によって石仏群は田の中に埋もれていた。それを村の人たちが掘り出してきて、並べたのが大正9年。その年に皇太子、後の昭和天皇がおいでになった記念で並べたと解説されていました。不思議なことです。
 お寺が完全に破壊されたというのは、あちらではどういう意味を持つかといえば、お寺が神社になるということです。向こうの神社に行きますと、不思議なことに鳥居の横に、狛犬ではなくて、仁王が立っている。私たちから見れば不思議なことなのですが、あちらの人たちは当たり前だと思っている。なぜ鳥居の横に仁王がいるのかというと、それはお寺だったからです。
 このようにして、今から130年ほど前に起こったことも、何も考えずにいきますと、おかしなことが当たり前になるのです。
 神社で結婚式で挙げて、披露宴はホテルというのが一般的です。神社で神式の結婚式を挙げるというのは「古式に則り」といいますが、それは江戸時代にはまったくなかったことです。最初に神社で結婚式を挙げたのは大正天皇なのです。明治33年に、九条節子という方と結婚なさったときに、日本人で初めて神社の前で神式で結婚式を挙げ、帝国ホテルで披露宴を行った。それを皆、真似したのです。最初は上流階級が真似したのですが、戦後はそれが当たり前になって、昔から神社で結婚式をやるものだと思っている。
 大正天皇のときは、当時の神主さんは結婚式のやり方が分からないわけです。当時、渋谷に伊勢神宮の拝殿がありまして、そこの神主さんが考え出したのです。それが関東大震災を経て、千代田区に移り、東京大神宮という名前になっています。今では宮崎あおいさんが結婚式を挙げたり、若者の間では縁結びの神だと人気がありますが、それはそういうことなのです。
 富山には梅沢町がありますね。これは以前は寺町と言ったのです。これは廃仏毀釈以来なのです。私のおります福光町や金沢市に御坊町があります、そこに大きなお寺があった。江戸時代は寺社奉行がありました。今はなぜか社寺と言います。社寺建築とか。江戸時代は寺大工と言ったものが、今は宮大工と言いますね。これらはやはり、明治の廃仏毀釈ということを考えざるを得ないのです。
 江戸時代に御本山が76年間に4度も焼けておりまして、門徒さんが人足奉仕としてたくさん行くのですが、一番多かったのは越中だったと言われています。その意味で門徒の団結の強かった場所だろうと思います。第3次再建というのがありました。親鸞聖人の600回御遠忌の3年前に本山が焼け、突貫工事で御遠忌に間に合わせた。東西両本願寺、合わせて100万人の人が参詣したと言われる。そのとき、まさか富山で廃仏毀釈、真宗の寺院が一ヶ寺を残してすべて潰されるということは当時の人は夢にも思わなかった。しかし、その頃すでに、ペリーが浦和に来る。国学者が出てくる。新撰組が西本願寺を屯所にする。そのようにして不穏な空気が感じられる。しかし、越中、日本は大きな激動の渦に巻き込まれて、私たちは基本的な精神生活も、なにからなにまで変貌してしまうという予想は立たなかったと思うのです。しかし、その頃すでに水戸藩の藤田東湖が「仏教無用論」を出しています。仏教は役に立たないものであり、これからは挙藩一致して日本の国体を確立して攘夷を果たさなければならない。欧米列強と戦って、勝たなければならない。そんなときに仏教は何の役にも立たないから、適当な数に整理して、寺領を田にし、釣鐘、仏具を大砲にせよと進言し、藩主、水戸斉昭は実行した。そのときに、すでに始まったのです。斉昭が行った影響で、当時の孝明天皇が「攘夷の詔」を出しますが、寺の梵鐘を大砲にせよと言っています。これを東西本願寺が、謹んで受けよという命令を出しています。
 ですから、廃仏という時、必ず象徴的なのが、釣鐘が大砲になるという。これが第二次世界大戦中、私たちの寺の釣鐘もほとんど残らなかった。あのときにはじまったのではなく、前例を作ってきた。それを私たちの教団も、勤皇思想とか武力で脅されるとかする中で、それを容認してきたということがあります。今後、それが続かないとも限らない。そのあたりの歴史の流れをよく把握しなければならない時だと思います。

さて、藤田東湖は仏教が大嫌いでした。そのところに平田篤胤が現れる。その平田篤胤の神学思想と

2008年03月23日

●富山東別院創建記念碑について研究報告

石川正穂〈富山教区 第11組 玉永寺〉富山東別院創建記念碑について
大火、戦火をくぐり、別院設立への願いを唯一伝えてくれる記念碑。それは未来への道しるべです。
刻まれている重大なメッセージを読み取り、真宗門徒である私たちが、これから歩むべき方向を考えます。
松本白華の生涯
天保9年(1838)誕生
安政3年(1856 18歳)本誓寺住職となる
明治3年(1870 32歳)富山藩合寺事件。12月8日、富山藩へ本山から派遣され実情検分。
明治4年(1871 33歳)新門主に要点五ヶ条の報告陳情書を提出。
2月 強制合寺の不都合を実情を上げて論し、布令を批判。
3月 新門主(現如)、白華より報告の五要点を詳細に挙げて政府の善処を願い出る。
4月 寺院寮に宛て、当初の布令以下一連の始終の経過を一々布令を挙げ陳述。合寺令の不当をなじる。
明治5年(1872 34歳)新門主に随従し、石川舜台、成島柳北らと欧州への宗教事情視察に赴く。
明治10年(1877 39歳)外国布教掛 上海別院輪番となる。
明治12年(1879 41歳)輪番職を辞して帰国。子弟の薫育に当たる。
明治17年(1884 46歳)富山の説教所が別院に昇格。
     白華の手による碑が、損壊しつつも、今も残っている。
明治30年(1897 59歳)寺務改革派の総代として嘆願書を提出する。
       石川舜台第二次宗政時代(~1902)
明治43年(1910 72歳)本山議制局議長に就任。
大正15年(1926 89歳)没す。

石川正穂〈富山教区 第11組 玉永寺〉富山東別院創建記念碑について

 富山別院御遠忌の企画として富山藩合寺事件を取り上げようという話が出てきたとき、わたしには割り切れないものがありました。富山藩というのは富山教区でも常願寺川より西にあった小藩です。ほかのメンバーの寺は被っていると思いますが、自坊があります水橋は加賀藩の飛び地でしたから、明治の廃仏毀釈は被っておりません。富山教区でも一部でだけ発った事件を、教区全体としてどれだけ問題意識として共有できるだろうかと。わたしとは関係のない問題ではないかという、迷いのようなものがありました。

 しかし、この事件を学び、調べるにつれ、明治に発った富山藩合寺事件というのは、局地に発った単発的な事件ではなく、日本の近代化の原点であり、そして真宗大谷派教団の近代化に重大な影響を与え、現代の真宗門徒である私たちに密接に繫がっている事件であるということに思い至ったのです。

 富山別院は大火や戦火によって焼けています。唯一、大火、戦火をくぐりぬけて、創立当時のことを伝えているのが創立記念碑です。石碑の一部は損壊して読めません。それでも、明治維新の際に富山藩で廃仏毀釈があったこと、明治13年にここに説教所が建てられ、17年に別院へと昇格した際に石碑が建立されたこと、そして松任本誓寺の住職、松本白華がこの文章を書いたということが読み取れます。破損して裏に置かれ、周辺部分がバラバラになっていましたが、今回、それを修復し、創立当時のように別院の正面に安置する予定だそうです。

 年表をご覧ください。明治2年、富山藩合寺令事件が勃発しました。富山藩へ赴き、調査、交渉を行うことを本山から命じられたのが白華でした。多くの寺が打ち壊され、鐘楼・仏具が武器へと鋳潰され、僧侶が還俗を迫られている悲惨なありさまを、白華は目撃しました。仏教は役に立たない空理空論であり、僧侶は門徒の上に胡座をかいてるだけで必要ない。厳しい廃仏毀釈が目の前で実行されていたのです。

 白華は政府、藩、そして本山に対して、次々と調査書や意見書を提出します。例えば明治4年、本山にあてた報告陳情書のなかで、文明開化によって人々の交流は自由であるとされているのに、戒厳令が引かれているような様の富山藩の状況はどういうことなのかと抗議しています。この書はそのまま政府への要望書に添えられて提出されます。白華のめざましい活動は、当初事件を静観していた政府の方針を変えさせる大きな一因となりました。 

 その翌年の明治5年、白華は欧州視察に旅立ちます。時代遅れ、無用の長物とされた仏教が、「近代化」という機運にどのように対応し、参画していくか。新たな道を探ることが危急の課題でした。その後、白華が上海別院輪番となったのも、浄土真宗が海外にも進出できる力のある、近代的宗教であることを証明しようとしたものでした。

 清沢満之による宗門改革運動と近代教学、石川舜台による二院制の導入など、明治期の仏教者たちのめざましい努力によって大谷派教団の近代化は、国家体制の近代化に並走するペースで推し進められました。しかし、近代化路線は、真宗教団の独立性・主体性を薄め、天皇制国家体制の確立に追随することでもありました。

 富山藩合寺令事件から百年後、日本は近代化の旗印の下、アジアを先導する文明国であるという自負を持ち、海外進出と称し軍を派遣します。真宗教団は武器として鋳潰すため、今度は自ら梵鐘、仏具を供出します。多くの僧侶たちが兵士として戦場へ赴き、戦死しました。かつて時代に乗り遅れた者として受けた廃仏毀釈でしたが、皮肉なことに、今度はアジアの人々を未開の民族と貶めて侵略していく立場に立ったわけです。
 結果、再興された富山の寺々も、この別院も大空襲によって焼き払われました。さまざまな思いが先人たちの心に交錯したことでしょう。

 富山藩合寺事件は、私たちの教団の近代化という問題を見つめるための、重大事件であると思います。そして、今も仏教を時代遅れ、前時代の遺物と貶める廃仏毀釈は終わっていません。あるいは、私たち門徒自身がそのような考えにとらわれてはいませんか? 「明日から門徒やめなさい」と言われたら、みなさんはどうしますか?
 白華、そして富山の先人たちは、あの時、なにを守り、なにを後世に伝えようとしたのか。私はそれを、学ぼうと思っています。

2008年03月08日

●富山の仏教復興運動

 明治12年、本願寺第二十一世厳如上人が富山へ赴き、明治13年に説教所が設けられます。同じ明治13年に消失していた東本願寺の再建が始まります。これは廃仏毀釈の一応の収束を見越したからと推測されます。 

 1882(明治15)年8月、越中国(富山県)下新川郡にある某寺院は、土地では高名な真言宗の古刹でしたが、両堂の再建へは大いに賛意を表し、所有する山林にある巨木を寄進し、運搬に際して住職自ら旗を振って檀家を率いられたことが、当時の新聞に掲載されています。本山に寄贈された毛綱も、越中国(富山県)が最も多く16筋。続いて越後国(新潟県)15筋、羽後国(秋田県)10筋などとなっています。本山への協力がこれだけ厚かったのは、廃仏毀釈を経験した富山に仏教復興の機運が高まっていたからでしょう。

 明治17年、説教所は別院に昇格しますが、東西両別院設立について「富山市沿革史」に「これ明治三年廃寺合併以後、数多くの信徒を一室に集めて、説教を聴聞せしむる場なきに由り致す所のものなり」と記述されています。当時、別院の存在が切実なものであったことが伺われます。

 現在の別院の場所は、元は富山城の外堀でした。そこを埋め立てるために、神通川から土砂を運ぶ「砂持奉仕」が行われ、延べ7000人以上の門徒が参加したといわれます。こうした奉仕によって、明治21年に別院の仮本堂が総曲輪に誕生しました。

 廃仏毀釈の混乱の後、県内各地で「お講」が設立され、活発化します。それぞれのお講にご消息が下附されました。当時下附されたご消息は、現代から見れば問題が多い、明治政府方針に沿ったものでしたが、 越中の仏教再興を願いとした「お講」の意義が忘れられ、徐々に消滅していることが残念です。

 明治後期には県内に多くの石仏が建立されます。呉西は聖徳太子を祀る瑞泉寺の影響か「南無太子像」が多いのですが、呉東は「法蔵菩薩五劫思惟像」が多く作られます。法蔵菩薩の掛け軸も広く流布しています。 法蔵菩薩像は薩摩のかくれ念仏において、真宗門徒であることを隠すために、釈迦苦行像と偽って本尊としたものとも言われています。薩摩でも激しい廃仏毀釈が行われました。薩摩と富山のあいだにどのような関連があったのか研究が進められていますが、真宗への弾圧を連想させる仏像が廃仏毀釈後の富山で建立されたことの意味はなんだったのでしょうか。想像がひろがります。

●仏像への銃撃

 明治元年3月の神仏分離令を受けて、加賀藩は明治2年3月に、立山権現管下の芦峅寺・岩芦寺の神仏分離に着手していました。立山権現の「権現」の称号を廃して雄山神社と改称を命じ、芦峅寺・岩芦寺の衆徒をすべて僧形から神職に変えさせ、仏事関係の施設や仏像などの取り払いを命じました。これによって芦峅中宮寺では、姥堂や帝釈堂、布橋などが破脚されました。豊かな宗教習俗を形成してきた立山信仰は、政治によって変形させられ、現在に至ります。
 富山藩では明治3年10月4日、林太仲が大参事に任ぜられ、兵器鋳造のためとして、桜谷長慶寺にあった大仏の献上を強要し、この賞として閏10月24日に金千匹を下賜しています。この大仏破壊の際には寺院・信徒一同がせめて首だけでも頂けないかと懇願しましたが受けいられず、藩側では仏像をこも包みにして弾丸を撃ち込んで強弱を検査しました。
 こうして桜谷大仏は明治の廃仏毀釈により失われました。現在はそれを悼む信者より寄進された大仏頭が本堂内左側に安置されています。
 そして富山藩は、同月27日に、合寺令を発します。

●廃仏毀釈の政令

明治3年10月4日 林太仲 大参事に任ぜられる
10月12日 藩士卒一般に神葬祭を許可
閏10月初旬 永代経の厳修は7日間(当時は一ヶ月が一般的) 臨時法談は3日間に限る
閏10月7日 士族の女性の寺参詣を禁止
閏10月8日 宗教結社・私僧の禁止
閏10月9日 社寺境内に同居人を置き地代を徴収するすることを禁止
閏10月14日 寺院の時鐘及び太鼓使用の禁止
閏10月18日 藩庁よりの触状を迅速に行うように達し
閏10月19日 士卒郡市の寺院境内への埋葬禁止
閏10月24日 18日の達しに違反したとして処分、入牢、廃寺処分が命じられる
閏10月27日 合寺令発布
         他藩の僧侶を招待すること禁止 托鉢の僧尼を泊めること禁止
○当日 午前10時まで 遠村は午前0時までに 各寺へ兵卒を差し向け、
○28日中に家財・法具を取り払って合寺せよ
○29日午前6時に検分に来る
○藩内の要所に武装兵を配置し、門信徒を監視、藩外への連絡を絶つ
○(降雪期に入るため 取り払いは2月15日まで猶予に)
閏10月29日 女性の参詣は60歳以上、父母兄弟の忌日以外は差し止める
       寺へは供物のほか、一切の物品持参を厳禁する(市正・里正に命じる)
11月1日 他藩にある檀家を禁じる
11月4日 合寺強制後の寺院建物を至急取り払う
     寺院で還俗を願い出るものには建物、屋敷を下賜(各宗合計17ヶ寺が還俗)
11月10日 仏道鍛錬の輩には告寺後も寺号はそのまま差し置くが、そうでないものは廃寺
11月19日 合併後の真宗寺院全体の主寺公選を命ず
11月23日 告寺の強行に対する民心の動揺に対し、厳科に処す
11月24日 各寺檀家数の報告、檀家への年頭配り物を禁止
11月25日 合併所への違反参詣者の氏名を記帳し逮捕する
12月    村々から寺へ上納した仏給田に持分掛高に取り結ぶ
明治4年
1月26日 引き取り人なき旧寺院建物は旧寺院側で取り払うよう通達
1月 旧寺院の墓を長岡御廟所後草付の場所へ改葬すべし
   旧寺院跡開拓地、社寺領、村々より献納の仏給田、村方で調理せよ
廃寺や還俗した寺院の檀家は改宗自由、従来の宗旨を続けるものは各宗主寺の檀家とする
1月 町名改名
寺町→梅沢町 海岸寺町→八人町 寺内町→餌指町へ統合 古寺町→常盤町 門前町→五番町へ統合 御坊町→桃井町 長清寺町→相生町

2008年02月13日

●講に下附された本尊裏書

昨日から この付近の「ご消息」に伴って巡回しているご本尊の裏書です
別院昇格の頃のものですね
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2007年08月26日

●合寺令事件と松本白華 ー教団の近代化ー(草稿)

 現在修復中の別院本堂裏に、ひっそりと建っている石碑があります。 富山大火、富山大空襲を経て、碑文の半分は損壊して読めません。それでも、明治維新の際に富山藩で廃仏毀釈があったこと、明治13年にここに説教所が建てられ、17年に別院へと昇格した際に石碑が建立されたこと、そして松任本誓寺の住職、松本白華(1838~1927)がこの文章を書いたということが読み取れます。

 明治2年、富山藩合寺令事件が勃発しました。富山藩へ赴き、調査、交渉を行うことを本山から命じられたのが白華でした。多くの寺が打ち壊され、鐘楼・仏具が武器へと鋳潰され、僧侶が還俗を迫られている悲惨なありさまを、白華だけではなく、本願寺派の島地黙雷、大谷派の石川舜台らが目撃しました。仏教は役に立たない空理空論であり、僧侶は門徒の上に胡座をかいてるだけで必要ない。厳しい廃仏毀釈が目の前で実行されていたのです。
 白華は政府、藩、そして本山に対して、次々と調査書や意見書を提出します。例えば明治4年、本山にあてた報告陳情書のなかで、文明開化によって人々の交流は自由であるとされているのに、戒厳令が引かれているような様の富山藩の状況はどういうことなのかと抗議しています。この書はそのまま政府への要望書に添えられて提出されます。白華のめざましい活動は、当初事件を静観していた政府の方針を変えさせる大きな一因となりました。 
 その翌年の明治5年、黙雷、白華、舜台は欧州視察に旅立ちます。まだ事件が解決に向かう途上ですが、「近代化」という機運にどのように対応し、参画していくのかが危急の課題でした。新時代の教団の方向を探る旅でした。
 帰国後、島地黙雷は真宗は近代的宗教であるという自負を持ち、神道国教化を計った大教院からの離脱を促し成功します。「三条教則批判」の中で、政教分離、信教の自由を主張。合寺令事件から20年後に施行された明治憲法に「信教の自由」を加えることに大きな役割を果たしました。
 石川舜台は、明治・大正期の大谷派宗制改革の中心に立ちます。明治10年に白華を上海別院輪番として派遣するなど、浄土真宗を「世界の真宗」へと変貌させようと試みます。人材養成にも力を注ぎ、南条文雄、清沢満之、井上円了など近代教学の担い手となった人々を育てます。
 両堂再建の翌年(明治29年)、停滞していた宗門改革を図ろうとする清沢満之らによる白川党改革運動が起きます。白華は改革派の嘆願書を提出する総代として名を連ね、いったん下野していた石川舜台が再び改革の中心に立ち、宗議会の設立、寺務体制、財政機構、教学教化の近代化を進めます。舜台は殖産興業の機運にのった事業経営も試み、寺檀制度に頼らない教団運営を試みますが失敗に終わり、失脚します。
 こうして明治期の仏教者たちによるめざましい努力によって真宗教団の近代化は、国家体制の近代化に先行するようなペースで推し進められました。しかし、近代化路線は、真宗教団の独立性・主体性を薄め、天皇制国家体制の確立に追随することでもありました。
 富山藩合寺令事件から百年後、太平洋戦争末期、真宗教団は武器として鋳潰すために、今度は自ら梵鐘、仏具を供出します。多くの僧侶たちが兵士として戦場へ赴き、戦死しました。それは「自らの廃仏毀釈」であったはと言えないでしょうか。再興された富山の寺々も大空襲によって焼き払われました。さまざまな思いが先人たちの心に交錯したことでしょう。

 さて、白華の生涯を調べる中で、安政5年(1857)、19歳のエピソードが目に留まりました。金沢藩で大規模な飢饉や疫病の流行が起こったのです。そのとき「親子兄弟等身寄のない人には寺を開き、粥を与え耕地を開き、小屋を建て、甘藷を栽らせ、引き取り手のない無縁の仏にも手をさしのべられた」とあります。私にはこのお話が、富山藩合寺事件に奔走した白華の原点であったと思えてなりません。石碑の碑文は、抑圧された人々の側に立った白華の姿を、現代に伝えているようです。

2007年08月25日

●教団の「近代化」

「真宗史料集成 第12巻」 森龍吉「解題」より抜粋


 「教団の近代化」はまず体制と組織の近代化からはじまった。その問題意識は廃仏毀釈の受難をいかに押し返し克服するかという過程に胚胎する。仏教の主体性を回復するためにはさきに述べたように近世後期以来高まってきた廃仏論が指摘する寺院および僧侶の堕落と非生産性からいかに脱却するかという問題があった。その一つの方向としてはすでにのべたように戒律の復興を志し、「方外」の民であることを宣言して清規を回復する道がある。そしてもう一つは進んで世俗化に対応し、世俗世界における近代化の論理を体制と組織のなかに吸収して、新しい体制と組織を創出することである。ただし後者には道念の希薄化を増す危険性がある。その点を考慮すれば、すでのその前近代的温床となっていた寺檀制度を解体して、信仰の連帯による教団の再編成を指向せねばならない。それは困難でもあり、教団と寺院組織の経済的基盤を深刻に動揺させる危険がともなう方策である。しかし、ともあれこの二つの方向のいずれかを選びとらねばならぬ関頭に明治初期の仏教界は立たされた。この選択にあたって、仏教教団は自由に選びとれる事情ではなかった。そこには政治的・社会的状況というものがある。明治維新以来の政治的課題は絶対主義的統一国家の建設にあった。一切の国土と人民が、王土であり王臣でなければならぬという国家政策からいえば、「方外の民」はゆるされず、僧侶もまた俗性を強いられた。「釈」とか「禿」の字を持って抵抗した事例はいくつかあるにしても、それは一般化しえなかった。このような状況と課題のなかでとりうる道は次第に後者にしぼられ、その路線のうえで新しい展望を求めるほかはなかった。(略)
 まず、(真宗)教団の近代化は、政教分離の近代的原則を主張することで神道国教化の直接支配をくいとめ、国家憲法に該当する教団宗法を制定し、地方行政制度を確立し、そのうえで宗議会を開設するという方向で進められた。その結果、明治十年代においては国家体制の近代化に先行する姿勢をしめした。その後この近代化路線は絶対主義国家体制の確立にともないそれに追随し、規制される。政教分離の原則主張は後退し、国家神道の支配が、「神道非宗教」という詭弁政策によっておおいかぶされ同二十年代となると固定化されてくる。その転化を起点として、日本の資本主義的発展の路線を追いかけるように、布教活動を拡げつつ、工場・刑務所・軍隊および移民地・植民地に進出し、国家権力との関係を深めつつ、「公認宗教」の雄となる方向へ進展するのである。ここに教団の近代化路線は独立的・主体的意味を喪失し、「真俗二諦」と、「王法為本」の宗是の新しい確立が強調され、門徒民衆の生活の物心両面にわたる要求をうけとめる機能をうしなっていった。明治二十年代の後半から「宗教改革」と「教団改革」の自覚や運動が、在野的立場から一部僧俗の間に台頭しはじめるのはそのためである。先進性はこの段階から体制の指導者よりも在野の批判者に転移するとみなければならない。

2007年06月08日

●松本白華の生涯

天保9年(1838)誕生

天保13年(1842)石川舜台生まれる

嘉永2年(1849 11歳)得度

嘉永3年(1850 12歳)京都で漢学と書を学び 後に大阪で広瀬旭荘の門に入る。

安政3年(1856 18歳)本誓寺住職となる

安政4年(1857 19歳)香山院龍温に宗学を学ぶ。

安政5年~6年(20~21歳) 金沢でコレラ流行、米不作により価格暴騰、洪水、大火。
「松任一円の門徒衆は申すに及ばず、石川郡能美郡までも救出の手をさしのべられたのであります。すなわち親子兄弟等の身寄りのない人たちには寺を開き、粥を与え荒地を開き、小屋を建て、甘藷を栽らせ、引き取り手の無い無縁の仏にも手をさしのべられたのであります。」

明治2年(1869 31歳)明治政府の命により異宗教諭(キリシタンは金沢藩に525名、大聖寺藩に83名)となる。石川舜台も同様。この頃自坊に「遥及社」を開設し子弟の教育に務める。

明治3年(1870 32歳)富山合寺事件。12月8日、富山藩へ本山から派遣され実情検分。

明治4年(1871 33歳) 石川舜台第一次宗政時代(~1878)

2月 新門主に要点五ヶ条の報告陳情書を提出。
    強制合寺の不都合を実情を上げて論し、布令を批判。
   (異宗教諭の職を辞して東京へ。長三州の香草吟社に入る。
    宗名事件に奔走。)

3月 新門主、白華より報告の五要点を詳細に挙げて政府の善処を願い出る。

4月 寺院寮に宛て、当初の布令以下一連の始終の経過を一々布令を挙げ陳述。
    合寺令の不当をなじる。

明治5年(1872 34歳)教部省に出仕。新門主(現如)に随従し、石川舜台、成島柳北らと欧州への宗教事情視察に赴く。この間およそ一年間を「白華航海録」に記す。

明治6年(1872 35歳)執事補に就任。

明治10年(1877 39歳)外国布教掛 上海別院輪番となる。

明治12年(1879 41歳)輪番職を辞して帰国。子弟の薫育に当たる。

明治17年(1884 46歳)富山の説教所が別院に昇格。
            白華の手による碑が、損壊しつつも、今も残っている。

明治30年(1897 59歳)寺務改革派の総代として嘆願書を提出する。
       石川舜台第二次宗政時代(~1902)

明治43年(1910 72歳)本山議制局議長に就任。

大正15年(1926 89歳)没す。


「白華僧正の一生を振り返ってみますと、真に多事多岐多才のお方でありました。現在松任を中心に多くの書や画が残されているのを見、考え合わせますと、誰にでも気軽に仏法を教え諭され、請われれば、すぐに筆をとられたようです。昭和四十七年秋、文化の日に松任福祉センターにおいて、松任市郷土史研究会が主催して白華僧正の遺芳展を開きましたときには、近郷近在より見学者が引きもきらず、盛大を極め、文化の日の白眉であったことを思いましても、いかに秀れた傑僧であったかがわかるような気がします。」(松任本誓寺史)

2007年05月30日

●嶋地黙雷の「近代」

 明治五年一月、嶋地は、連枝沢融とともに外遊に出発した。財政の不如意と文明開化への無理解から、宗内には外遊反対の声が強かったが、この時期に両本願寺ともに新時代への対応を急いで外遊が断行され、欧米先進国の宗教事情と近代的な仏教学の発展とから、重要な教訓を得ることになった。
 嶋地は、英仏での見聞から強い印象を受けたが、その一つは、宗教が政治権力から毅然として独立していることにあった。もちろん、この独自性の背景には、長い宗教闘争の歴史があったのだが、こうした宗教のあり方に比べれば、大教院のもとでの仏教側の態度は、卑屈この上もないものと考えるほかなかった。こうして嶋地は、大洲鉄然ら故国の盟友にあてて、「宗旨には抗抵がなくては行われず、仏の大悲を学ぶ者は官人の鼻息を伺う様ではすまぬ」、「かようなる時勢になりながら政府に諛して教えを守などとは、算用のけた違に候」と書き送った。
 だが、こうした態度は、「真宗のほか、日本にて宗旨らしきものはなし。一神教でなければ世界ではものはいえず。幸いに真宗は一仏なり」という真宗の近代性への確信と結びついていた。これは、嶋地が外遊によって得たもう一つの重要な成果で、日本ではキリスト教に対比しうるほどに近代的なのは、一神教的な真宗だけであり、開帳・祈祷・卜占を仕事にしている真言宗や法華宗は、「叩きつぶす工夫が肝要」、禅宗・天台宗は学問で宗教とはいえず、八百万の神々を信ずるという神道にいたっては、宗教学的にはもっとも未発達な原始的宗教にすぎない、と嶋地は論じた。さらに嶋地は、ヨーロッパでは無頼の者をさして「オーム・サン・ルリジョン」、「無宗旨の人」というとのべ、ヨーロッパ文明の基礎に人心をふかくとらえている宗教が存在していることを洞察した。そして、こうした見地から、日本の近代化に真宗が果たすべき役割についての、昂揚してやまぬ信念が生まれてくるのであった。
(略)
 こうした嶋地の立場は、真宗の近代性への確信と、ナショナリストとしての情熱と、近代文明への希求とを、結びつけたものだった。もっとも近代的な宗教として真宗こそが、日本の近代化という課題にもっともよく応えうるのであり、そのことを西欧体験をへて確信した嶋地たちの使命は、きわめて大きいのであった。こうした確信と使命感の大きさとが、嶋地たちの大胆で手きびしい発言と情熱的な活動を支えていた。
(略)
 しかし、嶋地たちが、仏教とりわけ真宗をもっとも近代的な宗教だとし、それをもってまだ愚昧なままに眠っている人々を教導しなければならないとしたとき、それは、現実の真宗信仰とはまったくべつの宗教観念をもちだすことを意味していた。嶋地たちの頭脳のなかの真宗と現実の信仰とのこのズレは、嶋地たちの啓蒙意欲をかきたてたが、しかしそれは、啓蒙家としての独善性をもって現実に臨むことを意味していた。嶋地たちのこの啓蒙家としての独善性には、彼らがきびしく批判した神道家などの国民意識を統合をめざす独善性と、いくらか似たところさえもなくはなかった。それは、近代化していく日本社会に向けられた〝分割〟の、より近代化されたもう一つの様式にほかならなかったからである。

2007年05月29日

●松本白華

天保9年(1838)~大正15年(1926)(89)。大谷派、加賀本誓寺(松任市)の僧。号:厳護法城、法名:白華院厳護。明治5年(1872)教部省出仕、同年現如の宗教事情視察に随行して石川舜台、成島柳北らと西欧を歴訪し、航海録を著わす。同6年執事補。同10年東本願寺上海別院輪番。東本願寺宗政や護法運動に尽力した。

●真宗の独自性

 すでに述べたように、神仏分離政策以下の排仏的な気運のなかでも、東西本願寺派に代表される真宗の教勢は、必ずしも衰退に向かっていたのではなかった。成立直後の新政府は、財政的に両本願寺に依存するところが大きかったし、両本願寺の門末教諭にも期待しなければならなかった。そして、地方で廃仏毀釈が進められても、一貫してそれに抵抗したのは真宗であり、廃仏毀釈の嵐がすぎると、いちはやく寺院を再興させたのも真宗であった。神宮の大麻配布や説教をめぐって、もっともトラブルの大きかったのも真宗であり、大浜騒動や越前一揆のような闘争も、真宗地帯だからこそ発生したものであった。そして、地域でのこうした動向に対応するかのように、大洲鉄然・嶋地黙雷・赤松連城・石川舜台・松本白華など、新時代を代表するあたらしいタイプの僧侶たちが活発に活動するようになってきており、彼らは、西本願寺派の長防グループを中心に新政府の首脳部にもきわめて近い関係にあった。
 教部省と大教院は、こうした僧侶たちを中心にして、仏教側から政府首脳にはたらきかけて設立したもので、常世長胤のような復古派の神道家からすれば、教部省と大教院は、こうした真宗僧の陰謀によって生まれたとしてもよいほどで、それに手をかしたのが福羽美静や宍戸タマキのような長州閥の宗務官僚であった。常世は、教部省や大教院の設立とともに、そこで活動することになった真宗僧のことを憎悪を込めて記し、「教部省は真宗癖なる妖魅の巣窟となりて、他人いらずなり」(『神教組織物語』)と罵倒した。だが、こういう非難も、近代国家にふさわしい宗教のあり方を模索していた一部の僧侶たちからすれば、時代錯誤の教説にとらわれた者たちのさか怨みであったろう。国体神学の信奉者たちが、鬱屈した憤懣の思いにとらえられていたころ、一部の活動的な僧侶たちは、時代の動向をもっと冷静に見きわめ、文明開化や殖産興業の動向にも敏速に対応して、政治的社会的な発言力を強化しつつあった。
 だが、こうした一部の新しいタイプの僧侶たちの活動を、門末のより一般的な状況と切り離して理解してはならないであろう。この時代の真宗の動向と役割を理解するためには、いくつかの次元を区別し、その相互的な関連をとらえる必要があるだろう。
 まず、最も基底には、門徒民衆の宗教生活の独自性があるといえよう。真宗門徒は、大きな仏壇を家毎にそなえ、在家での説教や夜間の法談をおこない、神祇不拝の態度をとるものも多かった。近世の仏教は、葬儀と年忌法要の仏教として一般化していったのに、真宗では死者供養が簡略化される傾向があり、仏前に位牌を安置しない場合もあった。現在でも墓をつくらず、また神棚を祀らない地域があることが報告されているが、こうした性格は、明治初年まではいっそう顕著だったと思われる。要するに、真宗では、民衆の宗教生活にかなり発展した独自性があり、日常生活の全体がこうした宗教生活を軸に編成されているという点で、他の宗派とは区別されるのであり、そのゆえに、神仏分離以下の国家の宗教政策との葛藤も、いっそうきびしいものにならざるをえなかったのである。
 こうした門徒民衆の宗教生活を基盤にして、門末の寺院が存在しているのだが、これら寺院は、寺領・寺田などをもたずに門徒の布施に依存していること、真宗僧の妻帯生活にともなって、各寺院は特定の家によって相続され、地域の名望家としての地位を培ってきたこと、真宗の宗教活動の独自性の具体的内実として、法談・説教など、日常的な宗教活動を他の宗派よりはるかにかっぱつにおこなってきたこと、などの特色をもっていた。そして、こうした事情のため、廃仏毀釈がはじまると、これら末寺僧こそが地域を代表して護法のために奮闘することになった。それは、地域社会で要請された行為でもあったし、みずからの存在価値への問いかけでもあったろう。廃仏毀釈がきびしくなされた真宗地帯では、佐渡、富山藩・松本藩・大浜など、真宗末寺僧の必死の活動がなされている。彼らの活動様式の中心は、窮状を本山に訴えて本山から朝廷に陳情してもらうなどという微温的なものであったが、しかし、こうした様式の範囲のなかでは、彼らはきわめてねばりづよく、不屈の行動力を持っていた。
 こうした篤信の末寺僧からすれば、蓄髪・俗服で政府に出仕したりする活動的な僧侶たちは、宗義にそむく者のように見え、さらにさきの石丸八郎のばあいのように、そうした僧侶(僧侶出身の宗教官僚)こそが、真宗の信仰を破壊する張本人のように見えるばあいさえもあった。逆に、著名な僧侶たちからすれば、こうした篤信の僧たちは、時代の転換についての自覚が不足で、「区々たる歎願」(嶋地が富山藩の廃仏毀釈のさいの僧侶の活動を評した言葉)にのみ奔走している視野の狭い人たちのようにうつった。だから、中央で活動する著名な僧侶たちと、これら末寺僧とのあいだには、発想や行動様式のズレと対立もあったのだが、しかし、よりひろい視野から見れば、後者の活動をふまえて前者の活動もあったわけで、さらにいっそう基底部には、門徒大衆の独自の信仰生活があったのである。
 教部省の設置から「信教の自由」論の展開、そして、真宗の大教院離脱にいたる過程は、現象的に見れば、嶋地を先頭とする僧侶たちの大胆な論陣と政府首脳へのはたらきかけによって可能になったものであった。しかし、よりひろい歴史的な視野からすれば、佐渡、松本藩、富山藩などでの廃寺廃仏への粘り強い抵抗や、大浜騒動、越前一揆のような闘争などにおいてしめされた真宗信仰の固有性や強靭さこそが、限定づきにしろ、「信教の自由」への道をきり拓いた深部の力であった。

●宗教心の衰退・あらたな宗教体系の強制

 第四に、廃仏毀釈は、その内容からいえば、民衆の宗教生活を葬儀と祖霊祭祀にほぼ一元化し、それを総括するものとしての産土社と国家的諸大社の信仰をその上に置き、それ以外の宗教的諸次元を乱暴に圧殺しようとするものだった。ところが、葬儀と祖霊祭祀は、いかに重要とはいえ、民衆の宗教生活の一側面にすぎないのだから、廃仏毀釈にこめられていたこうした独断は、さまざまの矛盾や混乱を生むもとになった。そして、こうした単純化が強行されれば、人々の信仰心そのものの衰滅や道義心の衰退を引き起こす結果になりやすかった。ここに仏教が民衆教化の実績をふまえて、その存在価値を再浮上させてくる根拠があろうし、さらにもっと後までの見通しとしては、キリスト教や民衆宗教が活発に活動する分野が存在していたことも理解できよう。
 明治政府の指導者が確保したいのは、天皇を中心とするあたらしい民族国家への国民的忠誠心であり、国学者や神道家の祭政一致思想や復古神道的教説は、わりきっていえば、そのためのイデオロギー的手段として採用されたのであったから、国民的忠誠心を有効に確保してくれそうなどんなイデオロギーも、新政府と結びつきうる可能性があった。だから、国民の宗教生活に長い伝統を持つ仏教には、国民的忠誠心の確保という焦眉の課題についてのみずからの有効性を証明してみせることによって、その再生の道が拓けてくるはずであった。
(略)
 廃藩置県によって集権国家樹立の基礎を固めた明治政府は、四年以降、近代的国家体制樹立のための様々の政策を推進した。伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系は、一見すれば祭政一致という古代的風貌をもっているが、そのじつ、あらたに樹立されるべき近代的国家体制の担い手を求めて、国民の内面性を国家がからめとり、国家が設定する規範と秩序にむけて人々の内発性を調達しようとする壮大な企画の一部だった。そして、それは、復古という幻想を伴っていたとはいえ、民衆の精神生活の実態からみれば、なんらの復古でも伝統的なものでもなく、民衆の精神生活への尊大な無理解のうえに強行された、あらたな宗教体系の強制であった。
(略)
 ところが、廃藩置県をおえて集権国家としての体制をととのえた明治政府は、こうした民俗的なものへの抑圧をいっきょに強めていった。教部省と大教院による教化政策も、よりひろい視野からみれば、この開明的専制主義の一環であり、神仏各派は、その大合唱に加わることで、みずからの存在意義を政府に認めさせようとした。

●ご示談

吉田郁子 大黒や

 その昔は、別院でごまんさんがあると夜明かししたそうです。ですから、うち(大黒そばや)の番頭さんは、戦後になってからもごまんさんになると夜明かしするといわれたもんですが、もうその頃は夜明かしするようなことはありませんでした。それでも一一時ぐらいまではそばを食べにくる人はいました。
 ごまんざでは、ご示談といって信者さんがお坊さんにいろいろと質問したり、お坊さんがそれに答えたりします。また、信者さんの中にもいやそうじゃないと言う人がいたりして、討論会みたいなものだったんです。この日だけは、お坊さんの話をありがたく聞くというより、日ごろ疑問に思っていることをお坊さんに聞くような行事のようでした。
 私は一度だけですが、一一時ごろまでご示談を聞いた事があります。あるおばあさんが言われたんです。「私とこの姑さんが、いみずがえりされた(生き返った)がです。そしたら、極楽へ行ったら、極楽はいいとこで、けっこうでけっこうでならんとこだったって言われるがやけど・・・」。ほんとのことやら、その人が夢に見たことやらわからないような話もありました。不審なことや気がかりなことを聞かれるがですけど、おばあちゃんたちにすれば、今でいうレクレーションのようなものでもあったんでしょうか。

2007年05月21日

●別院建立の経緯

 越中は真宗王国であり、真宗寺院が多く、富山町の形成にも宗教が大きく影響していた。明治三年に合寺令・廃仏毀釈という仏教弾圧があったが、とりわけ富山では激しく、古寺町(現・梅沢町)などでは多数の寺院が破壊され、仏像・仏具も鋳つぶされた。翌年、この命令は修正されたが、富山町民はこうした弾圧に屈せず、寺院再建の気風は盛り上がっていた。

 (略)大谷派(お東)の説教所は明治13年に総曲輪に移転し、15年には本堂・庫裏が新築されたが、こちらも別院昇格を願い、門徒総代中田清兵衛さん、牧野平五郎さん、阿部初太郎さんらが本山に熱心に働きかけていた。

 両派門徒の運動が功を奏し、明治17年、ようやく本願寺大谷光尊大僧正と大谷派光勝大教生から富山県令国重正文へ別院昇格の願いが出され、認可された。この願書には、埋め立て費用は、婦負・上新川・下新川の本願寺門徒32000戸と大谷派門徒25000戸が一戸あたり50銭の一般寄付をおこない、残りは有力者が寄付することになっていた。こうして大手前の濠は坪20銭から30銭で払い下げられ、明治19年6月から10月まで農閑期を利用して、真宗両派の門徒により工事が始まった。男性は手ぬぐいをほうり冠りして半裸体、女性は菅傘に手甲キャハンで、神通川の土砂をお堀まで運ぶ「砂持ち奉仕」が行われた。この労役に加わった門徒数は延べ7000人以上といわれる。両別院の仮本堂は明治21年11月完成、その後何度か大火に見舞われたが、その度に門徒衆の奉仕は繰り返された。

●合寺令の経緯2

上の書から抜粋

明治三年(1870)一月四日
 加賀藩は神葬祭許可の布告に関連させて「仏法御取り潰しなどの浮説は事実無根なり」との大参事布告を出す。

明治三年十月、政府は民部省に寺院寮を設置した。これは真宗の嶋地黙雷・大洲鉄然らの寺院に対する中央機関設置の建白に由来されるといわれているが、それとともに頻発する各藩の合寺政策によってひきおこされた動揺が、地方政治の不安を招いている事実を、中央政府もみすごすことができない段階になったためと考えられる。それまで各藩からの合寺実施伺いに対し、各藩の藩意にまかせていた政府が、次第に慎重な態度を示し始める。「(略)富山藩の廃仏事件が、その態度変更の動機を与えたものであろう。」辻善之助「明治仏教史の問題」

明治三年十二月八日
 東本願寺では全国の末寺および門徒代表を招集し、地方廃寺対策を講じている。
 とくに状況が切迫していた富山藩に対しては、東本願寺派から松本厳護、西本願寺派から佐田介石を派遣し、実情を検分させるとともに藩庁と交渉をおこなわせた。

明治四年三月
 東本願寺門首現如が、富山藩の合寺についての藩内寺院の惨状を実地に見聞してきた松本厳護の添願書とともに嘆願書を提出する。

明治四年五月八日
 太政官は合寺による弊害が大きいから穏当な処置をとるように富山藩に命ずる。
 しかし、いまさら合寺を解除するのは難しいと判断し、二十日、そのままに差し置きたいと弁官に申し出る。富山藩では、これと同時に、合併所であった常楽寺・蓮華寺付近の町に通路を設置し、この道路の両側に一五歩ずつ地引をおこない、各寺院に分け与えようとしたが、合併寺院側は容易に妥協せず、旧地の復帰を主張して抵抗した。

明治四年七月二二日
 廃藩置県が行われ、合寺事件は未解決のまま富山藩は消滅し、この問題は、県が引き継ぐことになった。

●富山藩

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 加賀藩の支藩。1639年(寛永16)に加賀藩主前田利常の二男利次が独立し、婦負郡と新川郡の一部計10万石の領地を分与され成立する。

1676年(延宝4)の藩人口は7万4871人(武士7693・郡方5万968・町方と同続き1万6210・宗教者ほか833)、1810年(文化7)には、家中など含む領民は9万1245人となっている。

激動する幕末政局の中で、富山藩の藩士の一部も、藩政に積極的に発言を試み、1862年(文久2)には入江民部・林太仲・島田勝摩らは家老山田嘉膳の政治を批判する建白書を本藩に提出したが62年(元治元年)には島田が山田殺害へと暴走してしまった。富山藩も結局、本藩管理の下で、加賀藩同様に幕末政局に主体性を発揮できずに明治維新を迎え、廃藩置県によって消滅した。

北日本新聞社「富山大百科事典」より

●合寺合併寺院数の確定

「日本海地域史研究」第12号所収 栗三直隆「富山藩合寺事件 合併寺院数の変遷」より

A,東派(大谷派、東本願寺)
本寺三九か寺、寺中(塔頭)二八から九か寺、計六七~八か寺で史料はほぼ一致している。他に合寺直前に廃寺となった本寺一か寺、寺中一か寺を加えれば六九から七〇か寺となる。

B,西派(本願寺派、西本願寺)
本寺を一一八又は一二〇か寺、寺中ヲ五六又は六二(内、坊主名四)か寺と一致しない。本寺については二か寺が含まれていない可能性があり、さらに廃寺一か寺を加えると一二一から一二三か寺となる。寺中には寺号のない坊主名の道場や農民身分の道場主なども含まれるはずで、実数を把握するのは極めてむつかしい。仮に六二か寺としても、なお若干の増を見るべきであろう。従って西派本寺は一二一~一二三か寺、寺中は六二か寺以上、計一八三~一八五か寺余りとなる。これは近代の数字である寺院数にかなり接近した数で、異動や増減はあるにしても、これを下回る事は考えにくい。

 以上、A、Bを合計すると二五二~二五五(本寺一六一~一六三、寺中九一~九二)以上となる。

浄土真宗、日蓮宗、真言宗、修験道、天台宗、時宗、浄土宗、臨済宗、曹洞宗、明治三年(1870)閏10月、富山藩領の推定される寺院数は368~376余り、合寺合併寺院数は358~360。

2007年05月20日

●富山藩合寺令の性格

北澤俊嶺「明治維新における富山藩合寺事件について」

この論文は、県内で発行される合寺令研究において、「定説」とされていると言えるものだろう。

合寺事件の性格
 明治維新期における各地の廃合寺事件を通じて、大体二つの方向が観取される。
1、国学・儒学の廃仏論を理論的背景とするもの。
1、富国強兵・殖産興業の功利的立場から出たもの。
 後者は強兵の立場からは、幕末の水戸斉昭の例にならい、寺院の梵鐘・金具類等を徴収して兵器鋳造に宛て、富国の立場からは、寺院の維持を冗財とみなし僧侶に帰農を強要し開発耕作させることとなる。
 もちろんこの二つの潮流は、江戸時代以来次第に高まってきた一連の流れであるが、前者の廃仏論の基調となったものは、仏教の出世間主義に対する攻撃であり、後者は、前者の影響に触発されつつ、徳川幕政下の宗門改の檀家制度の上に安逸を貪ってきた寺院僧侶の堕落・横暴に対する反撃が、江戸中期以降次第に大きな力となって展開するものであり、折柄の近世社会経済の発達に伴う各藩財政の急迫及び海防攘夷の緊張と相関連して、次第に大きな力となっていた。
 明治新政府成立後は、王政復古による祭政一致の国策が確立し、神道が圧倒的優位の立場を獲得した時点においては、前者の廃仏論の立場からは、神葬祭の問題として強調される以外は、功利的な経世論的立場をとる後者が廃合寺問題の方向付けの主流となり、前者は之を支える理論的背景の役割を荷うようになっていった。

(略)従って富山合寺の性格は、廃仏論的傾向よりも寧ろ富国強兵のための社会的・経済的革新を目指して、旧弊一新のために、他藩に比して強大であった仏教の伝統的勢力を抑えて、藩政革新を期したものであろう。

(略)一方、長崎留学以来、文明開化の新知識を吸収し、さらに中央政府に使えて当時の革新的気風に乗じた林太仲にとっては、特に広沢参議との親交を背景に、守旧思想に満ちた藩政改革の意欲に溢れ、折から国内各地に連続した廃仏の風潮を取り入れ、先述の功利主義的立場と併せ考えて、思い切った合寺令を実行して、その手腕を発揮し誇示せんとしたと思われる。

●合寺令の経過

上の書から抜粋

明治三年(1870)閏十月二十七日、富山藩から領内の寺院に突如、すべての寺院は一派一寺にあらため、ただちに合寺せよ、という合寺令が発せられた。これは翌二十八日中に家具・仏具をとりはらい、指定された場所に合寺すること、二十九日の午前六時に藩の役人が検分に出向く、というきびしいものであった。しかも、檀家一同からの日延べなどの嘆願はいっさい聞き入られず、藩は武装した兵士を領内の要所に配置して寺院や信徒の動向を監視し、藩外、とくに各宗派の本山との連絡を断ち切るという徹底した取締りを行った。

合寺令がだされるまでに、林は閏十月初めよりやつぎばやに、寺院の活動に制限を加えた。おもなものをひろってみると、十月初旬に、浄土真宗寺院の年中行事である永代経勤修の日限を一ヶ月から七日間に短縮すると布告した。同七日には、士族の寺詣では、その都度、庶務方に許しを得るように通達している。翌八日には、一般の隠居が僧形したり、庵室や尼寺を構えたりすることを禁じ、同十四日には、寺院の寺鐘・太鼓の使用禁止を申し渡している。また、同十九日には、士卒に対し墓地は長岡御廟所の後方にある草付の場所を渡すから、寺院の境内にある墓は、ただちに改葬すること。今後、寺院の境内に埋葬することを禁ずる。ただし、自分の屋敷内には埋葬してもよいと通達した。

富山藩は、合寺令の執行にさいして数百人にのぼる武装兵士を配備し、合寺をためらうものは即時に逮捕するという厳戒態勢をしいた。これは他藩との接触や各宗本山からの干渉をできるだけさけるねらいであったと考えられ、合寺令と同時に、他藩からの僧侶の招待ならびに托鉢僧尼の止宿を禁止したり、他藩にある檀家をいっさい禁止したりしていることからもうかがわれる。この強引な合寺に対して、一般領民はただ驚くばかりであったが、同二十九日ごろまで数日間は、合併された場所へ手に手に金品・弁当などをもち見舞いにいく人びとで混雑をきわめたという。これに対して庶務方は二十九日、市正・里正を召集し、当分のあいだ、父母兄弟の忌日以外の婦人の参詣禁止、寺への供米をのぞくいっさいの物品持参の厳禁を命じた。

各宗派の合併所でもっとも悲惨をきわめたのは、浄土真宗の持専寺であった。他宗がひろい寺域へのわずかな寺院合併であったのに対し、真宗は二百数十ヶ寺・一二〇〇人あまりが持専寺の一三〇〇歩の境内、座敷と庫裏をあわせて一七〇畳、それに明徳寺七〇畳を加えたわずか二四〇畳のところへ雑居することになった。それは畳一枚に五人の割合であったという。

追い打ちするように、社寺方から十一月十七日、仏道に精進するものには寺号存続を許すが、怠惰な者は廃寺に処すという通達が出された。この結果、各寺院の寺号については一応許可されたが、宗教活動への強力な干渉は解消されなかった。

富山藩では、その後も合寺政策をおしすすめ寺院と関係ある富山の町名をのこらず改名したりした。例をあげると次の通りである。寺町→梅沢町、海岸寺町→八人町、寺内町→餌指町、古寺町→常盤町、御坊町→桃井町、長清寺町→相生町。