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      <title>研鑽の部屋</title>
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      <description>伝承と己証のノートです。
管理がめんどいのでトラックバックは受けつけておりません。</description>
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      <copyright>Copyright 2008</copyright>
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         <title>別院碑文</title>
         <description><![CDATA[　　　　　　　　　　　　　　被
　　　　　　　　　　　　　而教法
明治　　　季庚午歳富山藩布合寺旨教
　　　免有泰一令悉使寺院毀大政維新
之国是廃藩置県之変徒其間信徒復振起
　　果由　　耳明治十有三年　紀開城内
総曲輪址春三月望之経始建設本願寺云
　　　　者白華子　　石者　塚氏
明治十七年　申四月加賀松任白華
釈厳護並書
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         <pubDate>Sun, 24 Aug 2008 12:15:21 +0900</pubDate>
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         <title>公開講座報告（「富山如大地」原稿）</title>
         <description>公開講座開催にいたる経過については富山如大地第121号、「真宗」2008年１月号「今月のお寺」を参照していただきたい。 

第一回公開講座　３月２４日 
参加者は１００名。まず、実行委員がそれぞれの研究報告をおこなった 

「富山東別院創建記念碑について」石川正穂 
碑文を記した松任本誓寺住職、松本白華は合寺事件に対応した教団の知識人たちの一人であった。
事件後、彼らは教団の近代化に向けて邁進したが、それは天皇制国家体制確立への追随することにもなった。 

「林太仲は仏敵か？」永崎暁 
富山藩大参事、林太仲が合寺令を発布した背景には、藩財政の逼迫と、寺院、僧侶が為政者から「無用の長物」とされたという、経済的な要因が強かった。
現代にもつながる経済と仏教との関係について考える必要がある。 

「合寺事件の歴史的意義」長真寿 
地元寺院、門徒は、表立って権力と戦わなかったが、表面的には随順を守りながらも、実際には団結を固めて信仰を守った。
合寺事件に対する建言、嘆願が廃仏毀釈に傾いていた政府を動かした。 

「浦上キリシタン配流事件　弾圧者＜加害者＞としての真宗寺院」安川潤 
真宗寺院はキリシタン弾圧に積極的に協力していたが、合寺令の発布によって同じく信仰を弾圧される側に立たされた。
寺院を合寺事件における被害者であると固定するのは一面的である。 

「廃仏毀釈と女性」見義悦子 
廃仏毀釈を退けることができたのは、災害と飢饉のなかで貧しい生活を支えていた女性たちが、念仏を必要としたからではないか。
一日一日を地を這うように生きていた人々に、念仏は生きる力を与えていたのではないだろうか。 

引き続き　高岡教区　太田浩史氏が「激動の富山仏教　－日本最大の廃仏毀釈が現代に問うもの」と題して講義。水戸藩の廃仏毀釈、明治元年の「神仏判然令」から、富山藩合寺令の廃止を経て、すべての宗教が国家に奉仕する宗教形態が定まるまでの歴史の経緯を紹介された。 

第二回公開講座　5月12日　参加者は８０名 

阿満利麿　明治学院大学名誉教授が「宗教と政治」と題して講演された。 
第二次大戦時の梵鐘供出の無念さを忘れないため、巨石を吊り続けている長野県称名寺の鐘楼を紹介。大戦時に再び梵鐘を供出させられた富山の寺院には、無念の思いはなかったのだろうかと問題提起された。政治は暴力を認め、暴力を否定する宗教とは一番遠いところにある。慈悲を旗頭にする仏教の立場を貫けば国家の暴力と対立せざるをえないという現代の課題を、高木顕明の生涯を交えながら話された。 

講演後、阿満氏と太田氏が対談し、合寺事件研究をまとめ、参加者からの質問を交えて現代の諸問題について話し合ったことであった。
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         <pubDate>Fri, 11 Jul 2008 07:53:43 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第二回　公開講座　阿満利麿講義ノート</title>
         <description>（文責は流星）
念仏者九条の会ポスター　大きな石　長野県称名寺
巨石をつらす　供出　戦争中　金属が不足し弾薬　国内のもつ金属をかき集める
１９４１　金属回収令　指輪　時計　キセル　火鉢　火箸　電車の複線を単線に
国民の持つ金属　格好のターゲット　全部供出　供出の法要
敗戦後　鐘楼は重いものをつるしておかなければならない　コンクリート　岩
鐘楼を守る　石を釣り続ける　あまりにも無念だった
仏法を響かせるもの　教えるものが　殺生の　戦争の道具になった
それに対して無力であった　無念の思いを忘れないためにつるし続けた
戦争放棄は釈迦の教え　念仏者に大切な教え

金属回収令　東西本願寺は熱心だった
西は命日１６日　金属回収の日　檀家を回る
供出を命じる　促す　国家のお先棒を担ぐ
無念の思い　念仏はそんなに無力であったのか
慈悲に背く行為
富山の廃仏毀釈　梵鐘仏具類で大砲を作る
明治維新　二回ひどい目にあう　無念の思いはなかったのか　念仏はそんなに無力なのかノーと言えなかったのか　そのときはしょうがなかった
仕方がない　戦争　後期医療制度　念仏は無力ではなかった　力強い念仏もあった
同朋会運動　高木顕明　すばらしい話もしらないかもしれない

１９０４年　愛知県　和歌山　新宮
あまりにも苦しい差別をみる　お布施をもらえない　マッサージ
自分で稼ぎなさい　坊主はボランティア
経済的な余裕があれば　読み書きを教える
廃娼運動　時の流れに同調するのが真宗？　戦勝祈願　親鸞聖人の書かれたものに戦のために祈願せよと書いてあるか　できません　非戦論　水平社の前に差別に憤りをもつ
部落解放の運動　１９１０　大逆事件

なぜ捉えられたのか分からない　幸徳秋水　２４名死刑　無期懲役
無念の思いではない念仏がある
信心をうると　思想は一遍せざるをえない
みほとけのなしめたること　行ぜしめることを　やりたいと思う
念仏をしながら戦勝祈願ができるのか
名号は　万人を平等に救う教え
念仏をしてエリートや権力者にできるのか
彼らは民衆は馬鹿にしている　人権をみない　ビルマ軍事政権
名号は力の弱い大衆の救いを第一としている
念仏をしながら生存競争を肯定できるか
平等な存在なのに　強者と弱者を分けてよいのか
念仏をしてめざすべきは　共同生活　働いて得た糧で仏法を喜ぶ
生存競争ではない生活をめざすべき
向上進歩　戦争をしない　差別を否定する

阿弥陀仏の慈悲を暮らしの基準とする　慈悲にたずねる
そのために大逆事件にあう　行く手を阻んだのは差別と戦争
国家の二大悪　国家が戦争する　国民は戦争を望まない
国家を縛るのが憲法　国民と国家は違う　戦争は国家でしかできない　差別を国家が生み出し肯定しているから　差別と戦争に高木はぶつかった
その伝統がなぜ継承されなかったのか

日本の近代国家は　宗教に厳しい弾圧をし続けた
1868　5月　明治政府　キリシタン弾圧　近代日本の始まり
パークスの抗議　みかど崇拝のためにやっている　危うくするものは弾圧する
これは国内問題　１８７３高札をさげる　天皇崇拝を危うくするものは弾圧する
肯定する宗教だけを認める　仏教は天皇に擦り寄るしかない
天皇制に奉仕するすることを教義に入れる　信俗二諦　信心は信心　天皇は天皇
政府はキリスト教の布教を認める　個人の内面の信仰は認める
社会に働きかけるのは許さない　ウチと外に分断する
宗教は私事であると決める　宗教を個人の私事に閉じ込める
信教の自由　安寧秩序の範囲内　宗教の論理ではなく国家の都合のみ
宗教の本質を見抜いていた　みかど信仰は　本当の宗教にかなわない
仏教教団は　政治の本質を見ぬことをせず　国家に奉仕していった
教団は組織の防衛を優先させる　言いなりになる
とびくる弾丸　なむあみだぶつの声　弾丸を受けましょう
力強く念仏しながら死んでください


ねぜ念仏に生きようとすると政治とぶつかるのか
高木は擬似宗教天皇制　国家とぶつかる　宗教と一番遠いところにあるのが政治
人間の営みのなかで宗教と政治は間反対

政治は暴力を認める　宗教は暴力を否定する
宗教の道を歩めば政治から弾圧される
暴力とは何か　もっとも恐ろしい暴力　人を手段としてあつかう
数字あつかい　人格や顔でない　相手の意思に反して　自分に従わせる
最後は物理的力で　法律で　導いていく
法律は正義ではない　人間の社会の秩序はその世界の人々が納得すればいい
それはない　あるのは釈迦の僧伽ぐらい　そうしたルールはない
秩序を維持する　価値基準　反対する人は出てくる
その人を閉じ込め　排除し　差別する　それが必然

被差別部落はなぜ作られたのか　天皇制国家に反するかどうかの踏み絵
特定の人の集団をつくり　それを認めるのか認めないかを示すため
差別する人は必要　秩序のために差別が存在する
フリーター　同一労働は同一賃金はずなのに　賃金を差別する
会社の秩序に従うかどうかを確認する

格差は差別　グローバリズム　アメリカ　貧しさのために兵士として生きるしかない人々
格差社会で社会に這い上がれないようにして　戦場に送る　石油確保

国家は差別と排除で秩序を保つ　暴力を行使する
暴力は我われの　政治だけではなく　我われ自身がもつ
自己中心の場合に暴力的政治的になる
政治は自分と無関係ではなく　私のなかの暴力とつながっている


政治は暴力を肯定せざるをえない
９．１１　暴力の日常化　慙愧がなくなる　排除が当たり前
戦争を罪悪視していたのに　戦争ができるのが「普通の国家」となる
人間の世界から紛争はなくならないが　その解決方法
解決は非暴力で可能　非暴力で解決していく
念仏は非暴力の中心　非暴力の価値する

非暴力とは　真理を固く握る
真理を説く　行使する　政治の対極にある宗教

高木　念仏がどのような姿をとるべきかをしめしたが　教団は僧籍を剥奪した
歎異抄の流罪の記録　歎異抄は流罪の記録があっての歎異抄
信心とはなにか　信心を手にするとどういうことが起こるか　流罪
朝廷は法然、親鸞の仏教が広まると　慈悲が広まると危険と知った
旧仏教　修行による序列がなくなる　同朋になる　慈悲の平等
本願念仏を弾圧する　法然ほど長期に弾圧を受け続けた僧侶はいない
墓を暴かれ　版木を焼かれる

慈悲の立場を貫けは暴力とぶつかる　それを承知せよ

念仏とは何か　阿弥陀仏の事業に参加する行為
罪悪の私だが　念仏称えれば
あまねくもろもろの　貧しさ　苦しさを　救いて
阿弥陀仏の教えが広がるようにしたい
清沢満之　念仏は阿弥陀仏の教えを伝える「導器」である

阿弥陀仏の慈悲があるから生きていける
辛くて悲しい時代は生きていけない
凡夫が慈悲をささえるのが浄土の慈悲
念仏を称えると二種の智慧がわく
自他平等の智慧　一人一人が違うことが分かる智慧
暗闇を生きる必要はない　阿弥陀仏の事業を担いたい
高木　だれでも念仏すれば　ほんの少しだけ他人のことを考えられる
凡夫であることに　絶望ということはない　また本願を仰ぐ　挫折してお念仏　また力がわく

阿弥陀仏の事業に参加する　行動が必要　真宗は国際的ボランティア団体をもたない
末寺の寺を開放してほしい　自由な空間
政治が作り上げた窒息に対する自由な空間を
新しい念仏集団　寺の改革では間に合わない
僧は政治家　既成仏教に期待してはいけない　在家の門徒ががんばる
信心の立場の向こうに政治がある　それを承知の上で信心の道を歩む</description>
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         <pubDate>Tue, 13 May 2008 06:32:07 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>別院創立記念碑について（法要パンフ用）</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.gyokueiji.net/namu/VFSH0013.html" onclick="window.open('http://www.gyokueiji.net/namu/VFSH0013.html','popup','width=768,height=1024,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.gyokueiji.net/namu/VFSH0013-thumb.jpg" width="300" height="400" alt="" /></a>

　富山別院は大火や戦火によって何度も消失しています。創立時から残っている、唯一のモニュメントが創立記念碑です。石碑の一部は損壊して読めません。それでも、明治維新の際に富山藩で廃仏毀釈があったこと、明治13年に説教所が建てられ、17年に別院へと昇格した際にこの石碑が建立されたこと、松任本誓寺の住職、松本白華がこの文章を書いたということが読み取れます｡

　明治２年、富山藩合寺令事件が勃発しました。藩の命令によって多くの寺が打ち壊され､鐘楼・仏具が武器へと鋳潰され､僧侶が還俗を迫られている悲惨なありさまを目撃した白華は、政府､藩､そして本山に対して､次々と調査書や意見書を提出しました｡彼のめざましい活動は、当初事件を静観していた政府の方針を変えさせ、富山の仏教を復興させる、大きな一因となりました｡　白華に碑文を書いてもらったのは、富山の先人たちの感謝の念からであったのでしょう。

　念仏の道場としての別院を大切にして欲しい。創立記念碑は、現代を生きる私たちに、白華や先人たちの願いを伝え続けています。
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         <link>http://www.gyokueiji.net/namu/2008/04/post_39.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">廃仏毀釈</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 21 Apr 2008 09:54:27 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第１回公開講座　太田浩史（冒頭３０分）</title>
         <description>　富山別院が御遠忌を迎えるにあたって、それにふさわしい催しをしたいということをお伺いしまして　そのなかで公開講座ということをやりたいというご相談を受けました。そのとき何をすればいいかということですが、別院というのが全国に６０ぐらいあるんでしょうか。いまの合寺ではありませんが、不要な別院はなくしたらどうかとか、あるいは地域において別院を今日維持していく意味があるのかとかいろいろな議論を聞くわけです。たとえばこれから先、教区は統廃合されて合併されるが一つの教区に別院が３つも４つも必要なのだろうかと。しかも別院にはそれぞれ大小があったり、長い歴史を持った別院もそうでないものもあります。富山県で言いますと井波別院のような７００年ぐらいの伝統のある、しかも教団史の上でも歴史的な意味を持つ別院がある。そうかと思うと、近世、とくに明治以降にできた別院もあるわけです。古いのが価値があって、新しいものはそうではないというような議論になってこないとも限らない。しかし、別院というものはどのお寺も必ず目的があって成り立っている。それがそんじょそこらの目的ではないものですから、今日的にもこれからも歴史的な意味があるのではなかろうかと。そういうことを　私、日ごろから思っておりまして。
　せっかく、富山別院の御遠忌に合わせてなにか皆で勉強するという機会を持つならば、やはり富山別院の歴史的意義について考えていこうじゃないかと。そうしたら、日本にあるたくさんの別院の中でも一際富山別院が持っている大きな個性とは何であろうかと考えたときに、廃仏毀釈がある。廃仏毀釈の荒れ果てた中から、寺もなにもなくなった状態から、この地域の精神的な拠り処として、一つの説教所として立ち上がってきた、あるいはこの地域にたくさんあった民衆のお講の中心道場として立ち上がってきたという。そういう歴史が見えてくる。
　そうしますと、廃仏毀釈とはなんであるのかを考えてみる必要がある。そうしたときに、明治のごく初期に起こった、しかもきわめて短時間、限定的に言えば、２．３年の間に起こった。しかし、その廃仏毀釈が、現代社会、私たち真宗門徒、あるいはお寺としての身の上にも、あるいは現代の日本人、日本社会の持っている精神的な構造に深い意味、あるいは傷跡を与えている。そしてそのことの自覚や解明がなされないと、私たちにとって的確で明るい未来を開いていくことはできないのではないかと。このようなことを思いまして、テーマを廃仏毀釈に絞ってやってみてはどうかという提案をさせていただいた。ところが、依頼を受けた私自身が、もう少し古い時代を勉強したことはありますが、近代というのはぜんぜん門外なのです。しかも、私は高岡教区。この富山教区、なかんずく旧富山藩領の事柄は何も知らない。ところがスタッフで集まられた方々はまさにそこにお寺があった。あるいは廃仏毀釈とつながりのあるお寺なのです。ならば、皆で調査研究をしてそれぞれの成果を持ち寄って総合発表するという形はどうですかということになりました。それぞれがそれぞれのテーマを持って、こうして研究をなさいました。それをまとめるような話をしなければならないのですが、実は私はそれだけの力を持っておりません。しかしこの研究のテーマはそのうち一つの冊子となって刊行されると思っておりますが、非常に意味があったと思っています。皆で議論をしながらここまで考察を深めてきたことに非常に意味があったと思います。また、これは本願寺派の学者の方ですが栗光先生にも着ていただいて、ご意見をいただきました、その中で、富山藩領における合寺という形の廃仏毀釈が富山県だけではなくて、日本の歴史、精神史の上で大きな意味があると、私自身が感じるようになってまいりました。これは来る５月１２日の第２回の公開講座において、最終的なまとめという形になると思います。阿満利麿先生をお迎えするわけですが、日本の明治国家、明治国家成立に伴う精神史の流れをライフワークとしておられる方ですから、私たちの研究とうまく絡んで、なんらかの成果が現れるのではないかと期待しているところです。
　私は３日ほど前、九州の都城へ行ってきました。そこは今は宮崎県と言っておりますけれども、昔は薩摩藩でした。薩摩藩というのは江戸時代を通じて真宗を徹底的に禁止し、迫害しました。かくれ念仏のお講がたくさんできていた。そこへご本山の本尊などを運び込むのは、富山の売薬であった。売薬を通じて本山と密接な関係があった。そうした迫害を受けながら江戸時代を通じて３０万人とも言われる人が犠牲になった。そういう念仏弾圧の中で育ってきた信仰がある場所です。しかし、いま「篤姫」という大河ドラマをやっていて、篤姫はいつも念持仏をもっていますが、島津家というのは真宗以外の仏教にははなはだ熱心なところだった。ところが、幕末から明治の初めにかけて、島津久光という藩主が、水戸の徳川斉昭と関係がありまして、そこの藤田東湖という水戸学の思想家と関わりがあって、明治維新と同時に、突如猛烈な仏教弾圧を始めるのです。これは徹底していまして1066ヶ寺の寺院がことごとく破壊されて、2600ほどの僧侶が還俗させられたといわれています。
　都城の郊外にある神社がありまして、国指定の重要文化財なのです。明治時代にできた神社がなぜ重要文化財なのか、不思議に思いました。その神社は近くにあった島津家の菩提寺の一つを壊して、その材木で建てたのです。その建物の中にご神体が祀ってあり、厨子があるのですが、鎌倉時代のもので元は薬師如来を収めていたのです。それが珍しいということで重要文化財になっているのです。本殿の裏に行きますとお寺があった場所が廃墟になっているのですが、そこにたくさんの石仏や石塔などいろいろなものがありまして、整備されて立っているのです。島津家の廃仏によって石仏群は田の中に埋もれていた。それを村の人たちが掘り出してきて、並べたのが大正９年。その年に皇太子、後の昭和天皇がおいでになった記念で並べたと解説されていました。不思議なことです。
　お寺が完全に破壊されたというのは、あちらではどういう意味を持つかといえば、お寺が神社になるということです。向こうの神社に行きますと、不思議なことに鳥居の横に、狛犬ではなくて、仁王が立っている。私たちから見れば不思議なことなのですが、あちらの人たちは当たり前だと思っている。なぜ鳥居の横に仁王がいるのかというと、それはお寺だったからです。
　このようにして、今から１３０年ほど前に起こったことも、何も考えずにいきますと、おかしなことが当たり前になるのです。
　神社で結婚式で挙げて、披露宴はホテルというのが一般的です。神社で神式の結婚式を挙げるというのは「古式に則り」といいますが、それは江戸時代にはまったくなかったことです。最初に神社で結婚式を挙げたのは大正天皇なのです。明治３３年に、九条節子という方と結婚なさったときに、日本人で初めて神社の前で神式で結婚式を挙げ、帝国ホテルで披露宴を行った。それを皆、真似したのです。最初は上流階級が真似したのですが、戦後はそれが当たり前になって、昔から神社で結婚式をやるものだと思っている。
　大正天皇のときは、当時の神主さんは結婚式のやり方が分からないわけです。当時、渋谷に伊勢神宮の拝殿がありまして、そこの神主さんが考え出したのです。それが関東大震災を経て、千代田区に移り、東京大神宮という名前になっています。今では宮崎あおいさんが結婚式を挙げたり、若者の間では縁結びの神だと人気がありますが、それはそういうことなのです。
　富山には梅沢町がありますね。これは以前は寺町と言ったのです。これは廃仏毀釈以来なのです。私のおります福光町や金沢市に御坊町があります、そこに大きなお寺があった。江戸時代は寺社奉行がありました。今はなぜか社寺と言います。社寺建築とか。江戸時代は寺大工と言ったものが、今は宮大工と言いますね。これらはやはり、明治の廃仏毀釈ということを考えざるを得ないのです。
　江戸時代に御本山が７６年間に４度も焼けておりまして、門徒さんが人足奉仕としてたくさん行くのですが、一番多かったのは越中だったと言われています。その意味で門徒の団結の強かった場所だろうと思います。第３次再建というのがありました。親鸞聖人の６００回御遠忌の３年前に本山が焼け、突貫工事で御遠忌に間に合わせた。東西両本願寺、合わせて１００万人の人が参詣したと言われる。そのとき、まさか富山で廃仏毀釈、真宗の寺院が一ヶ寺を残してすべて潰されるということは当時の人は夢にも思わなかった。しかし、その頃すでに、ペリーが浦和に来る。国学者が出てくる。新撰組が西本願寺を屯所にする。そのようにして不穏な空気が感じられる。しかし、越中、日本は大きな激動の渦に巻き込まれて、私たちは基本的な精神生活も、なにからなにまで変貌してしまうという予想は立たなかったと思うのです。しかし、その頃すでに水戸藩の藤田東湖が「仏教無用論」を出しています。仏教は役に立たないものであり、これからは挙藩一致して日本の国体を確立して攘夷を果たさなければならない。欧米列強と戦って、勝たなければならない。そんなときに仏教は何の役にも立たないから、適当な数に整理して、寺領を田にし、釣鐘、仏具を大砲にせよと進言し、藩主、水戸斉昭は実行した。そのときに、すでに始まったのです。斉昭が行った影響で、当時の孝明天皇が「攘夷の詔」を出しますが、寺の梵鐘を大砲にせよと言っています。これを東西本願寺が、謹んで受けよという命令を出しています。
　ですから、廃仏という時、必ず象徴的なのが、釣鐘が大砲になるという。これが第二次世界大戦中、私たちの寺の釣鐘もほとんど残らなかった。あのときにはじまったのではなく、前例を作ってきた。それを私たちの教団も、勤皇思想とか武力で脅されるとかする中で、それを容認してきたということがあります。今後、それが続かないとも限らない。そのあたりの歴史の流れをよく把握しなければならない時だと思います。

さて、藤田東湖は仏教が大嫌いでした。そのところに平田篤胤が現れる。その平田篤胤の神学思想と</description>
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         <pubDate>Wed, 09 Apr 2008 18:53:38 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>富山東別院創建記念碑について研究報告</title>
         <description><![CDATA[<strong>石川正穂〈富山教区 第11組 玉永寺〉富山東別院創建記念碑について
大火、戦火をくぐり、別院設立への願いを唯一伝えてくれる記念碑。それは未来への道しるべです。
刻まれている重大なメッセージを読み取り、真宗門徒である私たちが、これから歩むべき方向を考えます。
松本白華の生涯
天保９年（１８３８）誕生
安政３年（１８５６　１８歳）本誓寺住職となる
明治３年（１８７０　３２歳）富山藩合寺事件。1２月８日、富山藩へ本山から派遣され実情検分。
明治４年（１８７１　３３歳）新門主に要点五ヶ条の報告陳情書を提出。
２月　強制合寺の不都合を実情を上げて論し、布令を批判。
３月　新門主（現如）、白華より報告の五要点を詳細に挙げて政府の善処を願い出る。
４月　寺院寮に宛て、当初の布令以下一連の始終の経過を一々布令を挙げ陳述。合寺令の不当をなじる。
明治５年（１８７２　３４歳）新門主に随従し、石川舜台、成島柳北らと欧州への宗教事情視察に赴く。
明治１０年（１８７７　３９歳）外国布教掛　上海別院輪番となる。
明治１２年（１８７９　４１歳）輪番職を辞して帰国。子弟の薫育に当たる。
明治１７年（１８８４　４６歳）富山の説教所が別院に昇格。
　　　　　白華の手による碑が、損壊しつつも、今も残っている。
明治３０年（１８９７　５９歳）寺務改革派の総代として嘆願書を提出する。
　　　　　　　石川舜台第二次宗政時代（～１９０２）
明治４３年（１９１０　７２歳）本山議制局議長に就任。
大正１５年（１９２６　８９歳）没す。</strong>

石川正穂〈富山教区 第11組 玉永寺〉富山東別院創建記念碑について

　富山別院御遠忌の企画として富山藩合寺事件を取り上げようという話が出てきたとき、わたしには割り切れないものがありました。富山藩というのは富山教区でも常願寺川より西にあった小藩です。ほかのメンバーの寺は被っていると思いますが、自坊があります水橋は加賀藩の飛び地でしたから、明治の廃仏毀釈は被っておりません。富山教区でも一部でだけ発った事件を、教区全体としてどれだけ問題意識として共有できるだろうかと。わたしとは関係のない問題ではないかという、迷いのようなものがありました。

　しかし、この事件を学び、調べるにつれ、明治に発った富山藩合寺事件というのは、局地に発った単発的な事件ではなく、日本の近代化の原点であり、そして真宗大谷派教団の近代化に重大な影響を与え、現代の真宗門徒である私たちに密接に繫がっている事件であるということに思い至ったのです。

　富山別院は大火や戦火によって焼けています。唯一、大火、戦火をくぐりぬけて、創立当時のことを伝えているのが創立記念碑です。石碑の一部は損壊して読めません。それでも、明治維新の際に富山藩で廃仏毀釈があったこと、明治13年にここに説教所が建てられ、17年に別院へと昇格した際に石碑が建立されたこと、そして松任本誓寺の住職、松本白華がこの文章を書いたということが読み取れます｡破損して裏に置かれ、周辺部分がバラバラになっていましたが、今回、それを修復し、創立当時のように別院の正面に安置する予定だそうです。

　年表をご覧ください。明治２年、富山藩合寺令事件が勃発しました。富山藩へ赴き､調査、交渉を行うことを本山から命じられたのが白華でした。多くの寺が打ち壊され､鐘楼・仏具が武器へと鋳潰され､僧侶が還俗を迫られている悲惨なありさまを、白華は目撃しました。仏教は役に立たない空理空論であり、僧侶は門徒の上に胡座をかいてるだけで必要ない。厳しい廃仏毀釈が目の前で実行されていたのです｡

　白華は政府､藩､そして本山に対して､次々と調査書や意見書を提出します｡例えば明治４年､本山にあてた報告陳情書のなかで､文明開化によって人々の交流は自由であるとされているのに､戒厳令が引かれているような様の富山藩の状況はどういうことなのかと抗議しています｡この書はそのまま政府への要望書に添えられて提出されます｡白華のめざましい活動は、当初事件を静観していた政府の方針を変えさせる大きな一因となりました｡　

　その翌年の明治５年､白華は欧州視察に旅立ちます｡時代遅れ、無用の長物とされた仏教が、「近代化」という機運にどのように対応し､参画していくか。新たな道を探ることが危急の課題でした｡その後、白華が上海別院輪番となったのも、浄土真宗が海外にも進出できる力のある、近代的宗教であることを証明しようとしたものでした。

　清沢満之による宗門改革運動と近代教学、石川舜台による二院制の導入など、明治期の仏教者たちのめざましい努力によって大谷派教団の近代化は、国家体制の近代化に並走するペースで推し進められました。しかし、近代化路線は、真宗教団の独立性・主体性を薄め、天皇制国家体制の確立に追随することでもありました。

　富山藩合寺令事件から百年後､日本は近代化の旗印の下、アジアを先導する文明国であるという自負を持ち、海外進出と称し軍を派遣します。真宗教団は武器として鋳潰すため、今度は自ら梵鐘、仏具を供出します。多くの僧侶たちが兵士として戦場へ赴き、戦死しました｡かつて時代に乗り遅れた者として受けた廃仏毀釈でしたが、皮肉なことに、今度はアジアの人々を未開の民族と貶めて侵略していく立場に立ったわけです。
　結果、再興された富山の寺々も、この別院も大空襲によって焼き払われました。さまざまな思いが先人たちの心に交錯したことでしょう｡

　富山藩合寺事件は、私たちの教団の近代化という問題を見つめるための、重大事件であると思います。そして、今も仏教を時代遅れ、前時代の遺物と貶める廃仏毀釈は終わっていません。あるいは、私たち門徒自身がそのような考えにとらわれてはいませんか？ 「明日から門徒やめなさい」と言われたら、みなさんはどうしますか？
　白華、そして富山の先人たちは、あの時、なにを守り、なにを後世に伝えようとしたのか。私はそれを、学ぼうと思っています。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">廃仏毀釈</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 23 Mar 2008 08:03:37 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>富山の仏教復興運動</title>
         <description>　明治12年、本願寺第二十一世厳如上人が富山へ赴き、明治13年に説教所が設けられます。同じ明治１３年に消失していた東本願寺の再建が始まります。これは廃仏毀釈の一応の収束を見越したからと推測されます。　

　１８８２（明治15）年８月、越中国（富山県）下新川郡にある某寺院は、土地では高名な真言宗の古刹でしたが、両堂の再建へは大いに賛意を表し、所有する山林にある巨木を寄進し、運搬に際して住職自ら旗を振って檀家を率いられたことが、当時の新聞に掲載されています。本山に寄贈された毛綱も、越中国（富山県）が最も多く16筋。続いて越後国（新潟県）15筋、羽後国（秋田県）10筋などとなっています。本山への協力がこれだけ厚かったのは、廃仏毀釈を経験した富山に仏教復興の機運が高まっていたからでしょう。 

　明治17年、説教所は別院に昇格しますが、東西両別院設立について「富山市沿革史」に「これ明治三年廃寺合併以後、数多くの信徒を一室に集めて、説教を聴聞せしむる場なきに由り致す所のものなり」と記述されています。当時、別院の存在が切実なものであったことが伺われます。
 
　現在の別院の場所は、元は富山城の外堀でした。そこを埋め立てるために、神通川から土砂を運ぶ「砂持奉仕」が行われ、延べ7000人以上の門徒が参加したといわれます。こうした奉仕によって、明治21年に別院の仮本堂が総曲輪に誕生しました。 

　廃仏毀釈の混乱の後、県内各地で「お講」が設立され、活発化します。それぞれのお講にご消息が下附されました。当時下附されたご消息は、現代から見れば問題が多い、明治政府方針に沿ったものでしたが、 越中の仏教再興を願いとした「お講」の意義が忘れられ、徐々に消滅していることが残念です。

　明治後期には県内に多くの石仏が建立されます。呉西は聖徳太子を祀る瑞泉寺の影響か「南無太子像」が多いのですが、呉東は「法蔵菩薩五劫思惟像」が多く作られます。法蔵菩薩の掛け軸も広く流布しています。 法蔵菩薩像は薩摩のかくれ念仏において、真宗門徒であることを隠すために、釈迦苦行像と偽って本尊としたものとも言われています。薩摩でも激しい廃仏毀釈が行われました。薩摩と富山のあいだにどのような関連があったのか研究が進められていますが、真宗への弾圧を連想させる仏像が廃仏毀釈後の富山で建立されたことの意味はなんだったのでしょうか。想像がひろがります。</description>
         <link>http://www.gyokueiji.net/namu/2008/03/post_37.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">廃仏毀釈</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 08 Mar 2008 21:12:24 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>仏像への銃撃</title>
         <description>　明治元年３月の神仏分離令を受けて、加賀藩は明治２年３月に、立山権現管下の芦峅寺・岩芦寺の神仏分離に着手していました。立山権現の「権現」の称号を廃して雄山神社と改称を命じ、芦峅寺・岩芦寺の衆徒をすべて僧形から神職に変えさせ、仏事関係の施設や仏像などの取り払いを命じました。これによって芦峅中宮寺では、姥堂や帝釈堂、布橋などが破脚されました。豊かな宗教習俗を形成してきた立山信仰は、政治によって変形させられ、現在に至ります。
　富山藩では明治3年10月4日、林太仲が大参事に任ぜられ、兵器鋳造のためとして、桜谷長慶寺にあった大仏の献上を強要し、この賞として閏１０月24日に金千匹を下賜しています。この大仏破壊の際には寺院・信徒一同がせめて首だけでも頂けないかと懇願しましたが受けいられず、藩側では仏像をこも包みにして弾丸を撃ち込んで強弱を検査しました。 
　こうして桜谷大仏は明治の廃仏毀釈により失われました。現在はそれを悼む信者より寄進された大仏頭が本堂内左側に安置されています。
　そして富山藩は、同月27日に、合寺令を発します。
 
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">廃仏毀釈</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 08 Mar 2008 20:47:06 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>廃仏毀釈の政令</title>
         <description>明治3年10月4日　林太仲　大参事に任ぜられる
10月12日　藩士卒一般に神葬祭を許可
閏10月初旬　永代経の厳修は７日間（当時は一ヶ月が一般的）　臨時法談は３日間に限る
閏10月7日　士族の女性の寺参詣を禁止
閏10月8日　宗教結社・私僧の禁止
閏10月9日　社寺境内に同居人を置き地代を徴収するすることを禁止
閏10月14日　寺院の時鐘及び太鼓使用の禁止 
閏10月18日　藩庁よりの触状を迅速に行うように達し
閏10月19日　士卒郡市の寺院境内への埋葬禁止
閏10月24日　18日の達しに違反したとして処分、入牢、廃寺処分が命じられる
閏10月27日　合寺令発布
　　　　　　　　　他藩の僧侶を招待すること禁止　托鉢の僧尼を泊めること禁止
○当日　午前10時まで　遠村は午前0時までに　各寺へ兵卒を差し向け、 
○28日中に家財・法具を取り払って合寺せよ 
○29日午前6時に検分に来る 
○藩内の要所に武装兵を配置し、門信徒を監視、藩外への連絡を絶つ 
○（降雪期に入るため　取り払いは２月１５日まで猶予に） 
閏10月29日　女性の参詣は60歳以上、父母兄弟の忌日以外は差し止める
　　　　　　　寺へは供物のほか、一切の物品持参を厳禁する（市正・里正に命じる）
11月1日　他藩にある檀家を禁じる
11月4日　合寺強制後の寺院建物を至急取り払う
　　　　　寺院で還俗を願い出るものには建物、屋敷を下賜（各宗合計17ヶ寺が還俗）
11月10日　仏道鍛錬の輩には告寺後も寺号はそのまま差し置くが、そうでないものは廃寺
11月19日　合併後の真宗寺院全体の主寺公選を命ず
11月23日　告寺の強行に対する民心の動揺に対し、厳科に処す
11月24日　各寺檀家数の報告、檀家への年頭配り物を禁止
11月25日　合併所への違反参詣者の氏名を記帳し逮捕する
12月　　　　村々から寺へ上納した仏給田に持分掛高に取り結ぶ
明治４年
１月26日　引き取り人なき旧寺院建物は旧寺院側で取り払うよう通達
１月　旧寺院の墓を長岡御廟所後草付の場所へ改葬すべし
　　　旧寺院跡開拓地、社寺領、村々より献納の仏給田、村方で調理せよ
廃寺や還俗した寺院の檀家は改宗自由、従来の宗旨を続けるものは各宗主寺の檀家とする
１月　町名改名 
寺町→梅沢町　海岸寺町→八人町　寺内町→餌指町へ統合　古寺町→常盤町　門前町→五番町へ統合　御坊町→桃井町　長清寺町→相生町

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         <link>http://www.gyokueiji.net/namu/2008/03/post_35.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">廃仏毀釈</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 08 Mar 2008 19:20:16 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>第７回真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会　大会宣言草案</title>
         <description>　第7回真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会に今回は台湾・ソロクトの方々も含め250名の参加者と、多くの高山市民が集いました。この３日間は、ハンセン病問題がいま、ここにある問題であり、そして、これからの課題であることを認識する機縁となりました。
　わたしたちはいま、「すべての亡き人をしのんで」と題した追悼法要を勤めました。全国の療養所で慰霊祭が営まれましたが、この法要はいわゆる「みそぎ」などではありません。悲しみや怒りを鎮めるのではなく、いのちを奪われたこどもたちの声に耳を傾け、その声に応えていこうという誓いを新たにしています。
　「らい予防法」の廃止・真宗大谷派謝罪声明から12年、ハンセン病国賠訴訟勝訴判決から7年という年月が流れました。全国各地で、さまざまな運動が展開され、「新・あつい壁」の上映も行われています。 
　しかし、回復者の方が名告りをあげ、自由に里帰りができる社会になっているでしょうか？　療養所から離れている地域では療養所の存在はおろか、ハンセン病がいかなるものなのかさえ、あまり知られていないのが実情です。そして「私さえ黙っていれば家族に迷惑はかからない」と里帰りを断られる方が、いまも療養所にいらっしゃるのです。 隔離政策の傷跡はあまりにも深い。
　その意味でも今回、高山のスタッフが交流集会を誘致し、多くの市民と共に企画運営した意義は大きなものがありました。
　高山市やその周辺市町村議会での決議をはじめとする、基本法制定の動きがうねりとなりつつあります。基本法制定の署名運動が全国で展開され、大谷派でもすでに100万の署名が集まりました。 わたしたちは、隔離政策を真に否定し、療養所の壁を砕こうとしている基本法の願いに応えていきます。人の心にある差別・偏見に真向かいになり、お互いを尊敬すべき人間として見い出していく道に、これから踏み出します。
　
　いま、ここ高山で、宣言します。（続く・・・）</description>
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         <pubDate>Sat, 23 Feb 2008 00:49:33 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>講に下附された本尊裏書</title>
         <description><![CDATA[昨日から　この付近の「ご消息」に伴って巡回しているご本尊の裏書です
別院昇格の頃のものですね
<img alt="syousoku1.jpg" src="http://www.gyokueiji.net/namu/syousoku1.jpg" width="459" height="605" />
<img alt="syousoku2.jpg" src="http://www.gyokueiji.net/namu/syousoku2.jpg" width="261" height="631" />
]]></description>
         <link>http://www.gyokueiji.net/namu/2008/02/post_33.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">廃仏毀釈</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 13 Feb 2008 19:07:18 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ハンセン病問題基本法案</title>
         <description>第　一章　総則

（趣旨・目的） 
第一条　この法律は、ハンセン病問題に関する施策の基本理念を定め、並びに国、地方公共団体の責務を明らかにするとともに、ハンセン病問題に関する施策の基本的事項を定めることにより、ハンセン病の患者であった者等の名誉の回復及び福祉の増進を図り、あわせて、死没者に対する追悼の意を表し、もって偏見・差別のない社会の実現を目的とする。
（定義） 
第　二条　この法律において、「ハンセン病患者であった者」とは、らい予防法の廃止に関する法律（平成八年法律第二十八号。以下「廃止法」という。）によりらい予防法（昭和二十八年法律第二百十四号。以下、「旧らい予防法」という）が廃止されるまでの間に、ハンセン病を発病し、かつ発病後相当期間日本国内に住所を有したことがある者をいう。
２　この法律において、「国立ハンセン病療養所」とは、旧らい予防法十一条の規定により設置した以下の一三の療養所をいう。
国立療養所松丘保養園
国立療養所東北新生園
国立療養所栗生楽泉園
国立療養所多磨全生園
国立駿河療養所
国立療養所長島愛生園
国立療養所邑久光明園
国立療養所大島青松園
国立療養所菊池恵楓園
国立療養所星塚敬愛園
国立療養所奄美和光園
国立療養所沖縄愛楽園
国立療養所宮古南静園
３　この法律において、「国立ハンセン病療養所等」とは、前項の国立ハンセン病療養所及び本邦に設置された厚生労働大臣が定めるハンセン病療養所をいう。
４　この法律において、「入所者」とは、一項の「ハンセン病患者であった者」のうち、現に国立ハンセン病療養所等に入所している者をいう。
５　この法律において、「退所者」とは、廃止法により旧らい予防法が廃止されるまでの間に、国立ハンセン病療養所等に入所していた者であり、現に国立ハンセン病療養所等を退所しており、かつ日本国内に住所を有する者をいう。
６　この法律において、「入所者等」とは、四項の「入所者」及び五項の「退所者」をいう。
７　この法律において、「非入所者」とは、一項の「ハンセン病患者であったもの」のうち、旧らい予防法が廃止されるまでの間に、国立ハンセン病療養所等に入所したことがない者であって、かつ日本国内に住所を有する者をいう。
（基本理念） 
第　三条　ハンセン病問題に関する施策は、我が国における誤ったハンセン病対策がハンセン病患者であった者にもたらした甚大な被害に照らし、その被害を可能な限り回復することを旨として行われなければならない。
２　国は、我が国における誤ったハンセン病対策が、ハンセン病患者に対する差別、偏見を作出、助長してきた歴史に鑑み、その差別・偏見を除去するため、ハンセン病及びハンセン病対策の歴史に関する正しい知識の普及・啓発に努めるとともに、ハンセン病患者であった者及びその家族の名誉の回復に努めなければならない。
３　国は、国立ハンセン病療養所等の入所者が、安心して現在居住する国立ハンセン病療養所等で暮らせるよう、社会の中で生活するのと遜色のない生活及び医療の水準を確保するとともに、国立ハンセン病療養所等における生活環境が、地域社会から孤立しないように配慮しなければならない。
４　国は、入所者の社会復帰を支援し、かつ退所者及び非入所者が、終生にわたって社会内で安心して生活できるための施策を講じなければならない。
５　地方公共団体は、前４項の基本理念に従って、ハンセン病問題に関する施策を行わなければならない。
６　何人も、ハンセン病患者であった者に対して、ハンセン病患者であったことを理由として、あるいは現にハンセン病に罹患している者に対して、ハンセン病に罹患していることを理由として、差別することその他権利利益を侵害する行為をしてはならない。
（当事者の意思の尊重）
第　四条　国は、ハンセン病問題に関する施策の適切な策定及び実施に資するため、ハンセン病患者であった者らの意見を施策に反映させるための措置を講ずるものとする。

第　二章　国立ハンセン病療養所等における生活及び療養の保障

（国立ハンセン病療養所における療養） 
第　五条　国は、国立ハンセン病療養所において、入所者に対して、必要な療養を行うものとする。
（国立ハンセン病療養所への再入所及び新規入所）
第　六条　国立ハンセン病療養所の長は、退所者が、必要な療養を受けるために国立ハンセン病療養所への入所を希望したときは、入所させないことについて正当な理由がある場合を除き、国立ハンセン病療養所に入所させるものとする。
２　国立ハンセン病療養所の長は、非入所者が、必要な療養を受けるために国立ハンセン病療養所への入所を希望したときは、入所させないことについて正当な理由がある場合を除き、国立ハンセン病療養所に入所させるものとする。
３　国は、前二項の規定で入所した者に対して、必要な療養を行うものとする。
（在園及び生活水準の保障）
第　七条　国は、入所者の意思に反して、国立ハンセン病療養所から退所、転園させてはならない。
２　国は、入所者に対し、社会の中で生活するのと遜色のない生活及び医療の水準を保障するため、財政上の措置を講ずるとともに、国立ハンセン病療養所の生活環境及び医療体制の整備を行うものとする。また、国はその実現のために充足すべき医師、看護師及び介護員の確保に必要な措置を講じなければならない。
３　国は、国立ハンセン病療養所の生活環境及び医療体制の整備にあたっては、入所者が安心してその居住する国立ハンセン病療養所で暮らせるようにすると共に、その生活が地域社会から孤立したものにならないよう配慮しなければならない。
４　国は、前二項の目的を達成するため、国立ハンセン病療養所の土地及び設備（第十九条第一項に定める施設を含む）を地方公共団体あるいは地域住民等の利用に供する等、必要な措置を講ずることができる。地域住民等が利用する施設の事業執行者を認可する手続その他必要な事項は〔厚生労働省令〕で定める。
５　前項の措置を講ずるにあたっては、第三条の基本理念に基づき、国は当該国立療養所の入所者の意向を尊重しなければならない。
（国立ハンセン病療養所以外のハンセン病療養所に対する措置）
第　八条　国は、国立ハンセン病療養所以外の、厚生労働大臣が定めるハンセン病療養所における入所者に対しても、必要な療養を保障するための財政上の措置を講じなければならない。

第　三章　社会復帰の促進及び社会内生活の援助

（退所準備金等社会復帰の支援）
第　九条　国は、国立ハンセン病療養所等からの退所を希望する入所者の円滑な社会復帰に資するため、退所準備金の支給等必要な措置を講ずるものとする。
（退所者及び非入所者給与金）
第　十条　国は、退所者の生活の安定等を図るため、厚生労働大臣の定めるところにより、ハンセン病療養所退所者給与金を支給する。
２　国は、非入所者の生活の安定等を図るため、厚生労働大臣の定めるところにより、ハンセン病療養所非入所者給与金を支給する。
（ハンセン病等に対する医療体制の整備）
第十一条　国及び地方公共団体は、退所者及び非入所者が、国立ハンセン病療養所及びそれ以外の一般医療機関で、安心してハンセン病及びその後遺症等関連疾患の治療を受けることができるように、医療体制の整備に努めなければならない。
（相談窓口の設置等）
第十二条　国及び地方公共団体は、退所者及び非入所者の社会内での生活を援助するため、相談窓口の設置等、必要な措置を講ずるものとする。

第　四章　親族等の援護

第十三条　都道府県知事は、国立ハンセン病療養所の入所者の親族（婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情のある者を含む。）のうち、当該入所者が入所しなかったならば、主としてその者の収入によって生計を維持し、又はその者と生計を共にしていると認められる者で、当該都道府県の区域内に居住地（居住地がないか、又は明らかでないときは、現住地）を有するものが、生計困難のため、援護を要する状態にあると認めるときは、これらの者に対し、この法律の定めるところにより、援護を行うことができる。ただし、これらの者が他の法律（生活保護法（昭和二十五年法律第百四十四号）を除く。）に定める扶助を受けることができる場合においては、その受けることができる扶助の限度においては、その法律の定めるところによる。
　　２　援護は、金銭を給付することによって行うものとする。ただし、これによることができないとき、これによることが適当でないとき、その他援護の目的を達するために必要があるときは、現物を給付することによって行うことができる。
３　援護のための金品は、援護を受ける者又はその者が属する世帯の世帯主若しくはこれに準ずる者に交付するものとする。
４　援護の種類、範囲、程度その他援護に関し必要な事項は、政令で定める。
（都道府県の支弁） 
第十四条　都道府県は、前条の規定による援護に要する費用を支弁しなければならない。（費用の徴収） 
第十五条　都道府県知事は、第十三条の規定による援護を行った場合において、その援護を受けた者に対して、民法（明治二十九年法律第八十九号）の規定により扶養の義務を履行しなければならない者（入所者を除く。）があるときは、その義務の範囲内において、その者から援護の実施に要した費用の全部又は一部を徴収することができる。
２　生活保護法第七十七条第二項及び第三項の規定は、前項の場合に準用する。
（国庫の負担） 
第十六条　国庫は、政令で定めるところにより、第十四条の規定により都道府県が支弁する費用の全部を負担する。
（公課及び差押えの禁止） 
第十七条　第十三条の規定による援護として金品の支給を受けた者は、当該金品を標準として租税その他の公課を課せられることがない。
２　第十三条の規定による援護として支給される金品は、既に支給を受けたものであるとないとにかかわらず、差し押さえることができない。
（事務の区分）
第十八条　第十三条第一項及び第十五条第一項の規定により都道府県が処理することとされている事務は、地方自治法（昭和二十二年法律第六十七号）第二条第九項第一号に規定する第一号法定受託事務とする。

第五章　啓発及び名誉回復並びに死没者の名誉回復追悼

（資料等の保存等）
第十九条　国は、ハンセン病及びハンセン病対策の歴史に関する正しい知識の普及啓発並びにハンセン病患者であった者及びその家族の名誉回復を図るために、国立ハンセン病資料館を設置する。
２　国は、ハンセン病及びハンセン病対策の歴史に関する正しい知識の普及啓発並びにハンセン病患者であった者及びその家族の名誉回復を図るため、国立ハンセン病療養所における資料及び歴史的建造物の保存等必要な措置を講ずるものとする。

（死没者に対する名誉回復追悼の措置）
第二十条　国は、ハンセン病の患者であった者で死没した者に対する追悼の意を表するとともに、その名誉の回復を図るために必要な措置を講ずるものとする。

（厚生労働省令への委任）
第二十一条　この法律に定めるもののほか、この法律の目的を達成するために必要なその他の事項は、厚生労働省令で定める。
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         <pubDate>Wed, 30 Jan 2008 07:46:37 +0900</pubDate>
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         <title>高山集会　開催にあたって（正規版）</title>
         <description>１　国の誤った政策
ハンセン病を患った人を療養所へ隔離することを定めた法律、「癩予防ニ関スル件」が制定されたのは1907年でした。その後、この法律は「らい予防法」と名前を変えて強制力を強め、1996年まで継続されました。
1998年、九州の療養所入所者13名が「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」に立ち上がりました。勇気ある原告たちの証言により、療養所の中で行われていた断種・堕胎・患者作業・家族や故郷からの断絶などの数々の人権侵害が白日の下に晒されました。2001年に出された判決は、国の誤った政策の違憲性を認める画期的なものでした。そして、私たちもハンセン病を患った人たちを苦しめ続けた法律を90年にわたって放置してきたという事実を、目の前に突きつけられたのでした。

２　大谷派におけるハンセン病問題への取り組みの経緯
かつて大谷派僧侶たちは、隔離の中に生きることを余儀なくされている人たちに同情し、宗教的慰安を与えようと積極的に活動しました。療養所に残る同朋会誌に「私のようなハンセン病患者でも、ここで生かさせていただいている」といったニュアンスの表現を見ることができます。又、信仰の力によって、地獄のような世界を生き抜いていくことができたと多くの方が証言されています。そこからは、心静かに暮らす境地になることが真宗の信心であると､園内で受け止められていたことがうかがわれます。
しかし、それは同時に「誰が私をこのような状況に追いやったのか」という視点をぼかしてしまいました。慰安教化は、国家の暴力に抗議し、「人間を帰せ」と糾弾する精神を奪うはたらきをもっていたのです。
大谷派はこの歴史を踏まえ、「らい予防法」廃止を契機に「ハンセン病に関わる謝罪声明」を発表し、ハンセン病問題は宗門あげて受け止めていく課題であると宣言しました。その取り組みのために生まれたのが「ハンセン病問題に関する懇談会」です。研修・交流・真相究明・里帰り支援など、さまざまな活動が全国で行なわれています。そして、２年に１度、活動の集大成として開催されるのが「真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会」です。ここで当面の活動指針が宣言文として具体的に打ち出されます。

３　高山での開催の意義
第１回の交流集会は「真宗大谷派・全国ハンセン病療養所交流集会」という名称でした。名称からわかるように、私たちの関心は当初、入所者にのみに向けられていました。
その後、回を重ねるにつれ、退所者・遺族・家族・旧日本統治下に設置された台湾の療養所入所者と、出会いが広がっていきました。ひとつの出会いが新しい出会いを生み、ひとつの課題にふれることが新しい課題への眼を開かせてくれました。
今回、第７回目の交流集会開催地に名乗りを上げたのが高山のスタッフでした。その呼びかけに応じ、真宗本廟（東本願寺）をのぞいて、初めて療養所のない地域で交流集会を開催します。飛騨地方の真宗の中心道場である高山別院をメイン会場とし、市民との交流を念頭に置いた日程を組みました。
ハンセン病問題は大谷派が取り組むべき課題であり、国民的課題であります。しかし、90年にもおよぶ隔離政策は､療養所と社会の関係を遮断したため､この問題を見えにくい存在にしてしまいました。療養所から離れている地域では、ハンセン病問題はあまり知られていないのが実情です。結果、ハンセン病問題は、関心をもつ人だけの特殊な問題､他人事にされがちです。
だからこそ、今回は療養所のない高山での開催を試みます。初めてハンセン病問題に触れる人もいるでしょう。初めて回復者と会う人もいるでしょう｡故郷を思わせるような懐かしい街並み、人情あふれる高山。この地を舞台に新たな多くの市民と交流し、ハンセン病問題を「私（わたし）」の課題とする友として､共に歩み出したいのです。

４　ハンセン病問題の現状と課題
次にハンセン病問題の現状と課題を確認します。
①旧日本統治下の療養所、その入所者の現状
前回の京都集会では、台湾楽生院入所者との交流を持つことができました。日本占領下の台湾・韓国等のハンセン病患者に対しての政策と大谷派の関わりの究明、またそのことに私たちが無関心であったことを課題としつつ、さらなる交流を広め、深めます。
また、現在、台湾楽生院で起こっている｢強制退去・強制移転｣問題は、日本の療養所における｢統廃合｣問題と重なって見えてきます。
②「胎児標本」問題
療養所内の「断種」「堕胎」の実態と｢胎児標本｣の存在が、裁判後の検証で明らかになりました。しかし、この問題について、そもそも何故｢断種｣｢堕胎｣がハンセン病患者になされたのかということも含めて、国はいまだ十分な解明をしようとはせず､その非さえ認めていません。｢標本｣として残された堕胎児に対する国の対応は、遺族の心を踏みにじるようなものでした。そして､明確な謝罪がないまま、「慰霊」という形でこの問題に対する決着をつけようとしています｡
この問題は、私たちに対して、死者と向き合うとはどういうことなのか、慰霊とは何なのかという課題を投げかけています。
③ハンセン病療養所の「将来構想問題」
　全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)が中心となって「ハンセン病問題基本法を制定し、開かれた国立ハンセン病療養所の未来を求める国会請願署名運動」を展開しています。真宗大谷派もその賛同団体に加わっています。
入所者には今後の医療や介護についての深刻な不安があります。基本法の制定によって、「隔離政策に苦しめられてきた入所者が、その晩年を社会から切り離されることなく、たとえ「最後の一人」になるときが来るとしても、社会の中で生活するのと遜色ない生活及び医療が保障され、安心して暮らすことができる」療養所の実現が目指されています。
また、いまだに療養所が差別のまなざしの中にあり、社会とは離れた場所にあるという現実を変えたいという願いが制定運動の根底にあります。その目指すイメージは､「開かれた療養所」です。たとえば、療養所が地域の人たちの福祉の場、医療の場となれば、そこは人と人との新たな出会いが生まれる場所となるでしょう。
現在のハンセン病政策の法的根拠となっている「らい予防法の廃止に関する法律」は、療養所を入所者の療養以外の目的で利用することを許しません。「ハンセン病問題基本法」は､療養所を隔離から解放の場所へ転換するという理念をもっています。
基本法制定運動についての理解を深め､大きな動きへと高めていくことが､現在の私たちの目前にある課題です｡

５　真宗大谷派としての課題
慰安教化の歴史に何を学ぶかという課題があります。真宗の救済観についての見直しといってもよいでしょう。慰安教化の根底には「かわいそうな人を救ってあげる」という差別性が潜みます｡救う側にいるつもりの人には､自分は正しいはずだという認識があり､救われる側にいるとみなされている人に､教化が何を感じさせ､何をもたらすのか､反省させることを阻みます。ハンセン病を患った人たちを「救済の客体」、すなわち同情されるべきかわいそうな人としてとらえ、目線の下に固定するのです。
救う側と救われる側という二つの立場は相互に入れ代わることがなく､隔絶しています｡そこに「解放の主体」、つまり、互いを尊敬すべき人間として見い出しあう関係は生まれません。御同朋御同行精神の喪失です｡
　慰安教化の歴史から問われる「宗教的救済観」の問題は、教学と社会の接点に起こる問題、ひいては同朋社会の顕現とは何かを問う大きな課題であります。

６　まとめ
私たちは、大谷派における交流集会の原点、ハンセン病問題への取り組みの原点は、徹底して「ひとりと出会う」ということであると確かめてきました。それは、とりもなおさず、ひとりとひとりのつながりの回復を課題にしてきたということに他なりません。今回の交流集会において、もっとも大切にしたいことは、まさしくこの一点です。
いま、私たちに願われていることは、具体的なひとりと出会いながら、私たちがあたたかな血のかよった人間に立ち帰っていくということではないでしょうか。人間であることを回復する道へ・・・。
ハンセン病回復者と私たち。いま、共なる歩みを、私ひとりからはじめていきたいのです。さあ、「人間に帰ろう」</description>
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         <pubDate>Tue, 25 Dec 2007 13:34:07 +0900</pubDate>
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         <title>高山大会趣旨文（流星案）</title>
         <description>（高山教区スタッフが起草　流星が手を入れたもの）

開催にあたっての課題確認

１　国のあやまった政策
ハンセン病を患った人をすべて療養所へ隔離・収用することを定めた法律、「癩予防ニ関スル件」が制定されたのは１９０７年でした。その後、この法律は「らい予防法」と名前を変え、戦後、強制力を強め、1996年まで執行されました。
1998年、九州の療養所入所者13名が「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」に立ち上がりました。勇気ある原告たちの証言により、療養所の中で行われていた断種・堕胎、患者作業、家族、故郷からの断絶などの数々の人権侵害が白日の下に晒され、2001年に判決が出ました。それは、法律の違憲性を認める画期的なものでした。私たちは、ハンセン病を患った人たちとその家族を苦しめ続けた法律を、90年にわたって放置してきたという事実を目の前に突きつけられました。

２　大谷派におけるハンセン病問題への取り組み
大谷派僧侶たちは隔離の中に生きることを余儀なくされている人たちに同情し、宗教的安慰を与えようと積極的に活動しました。療養所に残る同朋会誌に「私のようなハンセン病患者でも、ここで生かさせていただいている」といったニュアンスの表現を見ることができます。心静かに暮らす境地になることが真宗の信心であると､園内で受け止められていたことがわかります。
信仰の力によって、多くの人々が療養所の中で地獄のような社会を生き抜いていくことができたという事実はあります。しかし、それは「誰が私をこのような状況に追いやったのか」という視点をぼかしてしまいました。慰安教化は、国家の暴力に抗議し、「人間を帰せ」と糾弾する眼を奪うという結果をもたらしました。
大谷派はこの歴史を踏まえ、「らい予防法」廃止を契機に「ハンセン病に関わる謝罪声明」を公表し、ハンセン病問題は宗門あげて受け止めていく課題であると宣言しました。その取り組みのために生まれたのが「ハンセン病問題に関する懇談会」です。研修、交流、真相究明、里帰り支援など、さまざまな活動を全国で行っています。そして、「真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会」を、活動の集大成として、２年に１度、開催しています。

４　高山での開催の意義
第一回の交流集会は「真宗大谷派・全国ハンセン病療養所交流集会」という名称でした。名称からわかるように、私たちの関心は当初、入所者にのみに向けられていました。
その後、回を重ねるにつれ、退所者、遺族・家族、旧日本統治下に設置された台湾の療養所入所者と、出会いが広がっていきました。ひとつの出会いが新しい出会いを生み、ひとつの課題にふれることが新しい課題への眼を開かせてくれました。
今回、第７回目の交流集会開催地に名乗りを上げたのが高山のスタッフでした。その呼びかけに応じ、真宗本廟（東本願寺）を除いて、初めて療養所のない地域で交流集会を開催します。飛騨真宗の中心道場である高山別院をメイン会場とし、市民との交流を念頭に置いた日程を組みました。
ハンセン病問題は国民的課題であり、大谷派が取り組むべき課題です。しかし、９０年にもおよぶ隔離政策は､療養所と社会の関係を遮断し､この問題を見えにくい存在にしてしまいました。療養所から離れている地域では、療養所の存在はおろか、ハンセン病問題でさえあまり知られていないのが実情です。結果、現在の運動は孤立する傾向を持ち、特殊な問題に関心をもつ人だけの事柄､他人事にされがちです。
だからこそ、今回は療養所のない高山で開催するという試みをおこないます。初めてハンセン病問題に触れる人もいるでしょう。初めて回復者と会う人もいるでしょう｡故郷を思わせるような懐かしい街並み、人情暖かい高山の地を舞台として運動の輪を広げ、新たな多くの市民たちと交流し、ハンセン病問題を同じく「私（わたし）」の課題とする友として､共に歩み出したいのです。

５　ハンセン病問題の現状と課題
ハンセン病問題の現状と課題を、確認します。

①旧日本統治下の療養所、その入所者の現状
前回の京都集会では、台湾楽生園入所者との交流を持つことができました。アジア諸国のハンセン病患者に対しての政策と大谷派の関わりの究明、またそのことに私たちが無関心であったことを課題としつつ、さらなる交流を広め、深めます。

②「胎児標本」問題
療養所内の「断種」「堕胎」の実態と胎児標本の存在が、裁判後の検証で明らかになりました。この問題について、国はいまだ十分な解明をしようとはせず､その非さえ認めていません。
標本として残された堕胎児に対する国の対応は、遺族の心を踏みにじるようなものでした。そして､明確な謝罪がないまま、「慰霊」という形でこの問題に対する決着をつけようとしています｡
この問題は、私たち宗教者に対して、死者と向き合うとはどういうことなのか、慰霊とは何なのかという課題を投げかけます。

③ハンセン病療養所の「将来構想問題」
　全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)が中心となって「ハンセン病問題基本法を制定し、開かれた国立ハンセン病療養所の未来を求める国会請願署名運動」を展開しています。真宗大谷派もその賛同団体に加わっています。
入所者には今後の医療や介護についての深刻な不安があります。基本法の制定によって、「隔離政策に苦しめられてきた入所者が、その晩年を社会から切り離されることなく、たとえ「最後の一人」になるときが来るとしても、社会の中で生活するのと遜色ない生活及び医療が保障され、安心して暮らすことができる」療養所の実現が目指されています。
また、いまだに療養所が差別のまなざしの中にあり、社会とは離れた場所にあるという現実を､変えたいという願いが制定運動の根底にあります。その目指すイメージは､「開かれた療養所」です。たとえば、療養所が地域の人たちの福祉の場、医療の場となれば、そこは人と人との新たな出会いが生まれる場所となるでしょう。
現在のハンセン病政策の法的根拠となっている「らい予防法の廃止に関する法律」は、療養所を入所者の療養以外の目的で利用することを許しません。「ハンセン病問題基本法」は､療養所を隔離から解放の場所へ転換するという理念をもっています。
基本法制定運動についての理解を深め､大きな動きへと高めていくことが､現在の私たちの目前にある課題です｡

④真宗大谷派としての課題
慰安教化の歴史に何を学ぶかという課題があります。真宗の救済観についての見直しといってもよいでしょう。
慰安教化の根底には「かわいそうな人を救ってあげる」という差別性が潜みます｡救う側にいるつもりの人には､自分は正しいはずだという認識があり､救われる側にいるとみなされている人に､教化が何を感じさせ､何をもたらすのか､反省させることを阻みます。ハンセン病を患った人たちを「救済の客体」ととらえ、同情されるべきかわいそうな人として目線の下に固定するのです。
救う側と救われる側という二つの立場は相互に入れ代わることがなく､隔絶しています｡そこに「解放の主体」として互いを見出しあう関係は生まれません。御同朋御同行精神の喪失です｡
　慰安教化の歴史から問われる「宗教的救済観」の問題は、教学と社会の接点に起こる問題、ひいては同朋社会の顕現とは何かを問うことになると思います。

６　おわりに
私たちは、大谷派における交流集会の原点、ハンセン病問題への取り組みの原点は、徹底して「一人として出会う」ということであると意識してきました。それは、とりもなおさず、一人と一人のつながりの回復を課題にしてきたということに他なりません。今回の交流集会においても、もっとも大切にしたいことは、まさしくこの一点です。
今､私たちが願うことは、具体的な一人と出会いながら、私たちが暖かな血のかよった人間に立ち帰っていくことです。人間であることを回復する道へ・・・人間に帰ろう。</description>
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         <pubDate>Wed, 03 Oct 2007 23:37:56 +0900</pubDate>
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         <title>七尾きよしさんのmixi日記より</title>
         <description>願は結果を伴うかどうかに関係無く願として満ち足りている。

本当の宗教心とは、自分の救済ではなく、目の前にいる人が救われていくことを願う心。

自分自身の救済を捨て願に生きていく。

癒されねばならないのか？

癒されてしまうと、浄土を欲する心が無くなってしまう。

苦を苦として受けさせていただく。

（常讃寺夏期講習講義メモ）</description>
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         <pubDate>Sun, 02 Sep 2007 07:47:04 +0900</pubDate>
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